『主の導きに従ったエリヤ』

2019年8月4日 主の日礼拝式メッセージ要約
聖書    列王記上18章1~2、41~46節  
メッセージ   『主の導きに従ったエリヤ』  
メッセンジャー  田中文人牧師

 キリスト信仰者は、主(神様)の導きに従って生きています。それは、神様の御手がひとりひとりに臨み、力を与えて導かれる歩みと言えます。いまから2800年以上前、北イスラエルで活躍した預言者エリヤもその様にして神様の働きに用いられました。
 1.御言葉をアハブ王に伝えたエリヤ:3年以上の間、イスラエルには雨が降りませんでした。そのため大飢饉になりました。アハブ王は、雨が降らないのは、エリヤのせいだと思い、彼を捕まえようとしていました。
 その頃、神様はエリヤに「行って、アハブの前に姿を現せ。わたしはこの地の面に雨を降らせる。」(1節)と告げられました。この御声にエリヤは従い、自分を捕まえようとしていたアハブに会い、割り引くことなく神様から聞き取ったことを伝えました。このことも、主の御手が臨み、力付けてくださったので出来たことといえます。エリヤの思いや努力で出来ることではありません。また、「上って行って飲み食いしなさい。」(41節)とも伝えました。「飲み食い」は、神様と和解することを表わす食事のことと思われます。
 私たちには、聖書66巻が完成しています。日本語訳でも読むことが出来ます。聖書は「誤りなき神の言葉」です。ひとつひとつの聖句は、神様に仕えるために私たちを整えてくれます。耳障りの良くない聖句にも嫌がらず、しっかり耳を傾けましょう。自分が聞き取るだけでなく、たとえ苦手な人に伝えるように示されたときも、聖霊の助けを得てそこに従い、キリストの福音を伝えましょう。神様は、すべての人が救われることを願っておられます。
 2.御言葉を実行したエリヤ:エリヤは、神様からの御声を聞いて、それをアハブ王に伝えただけではなく、告げられた通り実行しました。それが、アハブの車をイズレエルまで先導したことです(46節)。イズレエルには、アハブの妻イゼベルが待っていました。イゼベルはアハブとイスラエルの民にバアル等の偶像を拝むように仕向けた張本人です。エリヤにも恐れ等、いろいろな思いがあったことと思います。それでもエリヤは神様に信頼して言われた通りにしました。
 私たちにも神様は、やりたくないことをするように、行きたくない所に行くように示されることがあります。イエスさまの弟子のひとりペテロにも「あなたは、…年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。」(ヨハネ21章18節)と告げられ、その通りになりました。自分の思いではなく、御言葉(御心)に従うところに、祝福はよういされています。
 3.よく祈ったエリヤ:預言者エリヤというと、目覚しい働きに用いられた、よく動く人というイメージがあるのではないでしょうか?ですが、彼は、よく祈る人でした。神様から「雨が降る」とは告げられ、アハブ王にも伝えたものの、まだ降って来ません。彼は、カルメル山の頂上に登り祈り始めました(42節)。その途中、従者を山頂まで行かせ、海(地中海)の方から雲が来ていないかどうかを何回も見に行かせました。従者は、エリヤと山頂の間を6往復しましたが、何も見えませんでした。ところが7回目に掌くらいの雲が見えました。間もなく雨が降りはじめ、大雨になりました。
 私たちの祈りにも忍耐が必要です。祈り続ける中で、祈りの内容がしだいに御心に近か付けられていくこともあります。諦めず、「たえず祈り」ましょう。(Ⅰテサロニケ5章17節)。
(参考聖書箇所:ヨハネ21章18節、Ⅱコリント4章2節、コロサイ4章2節、Ⅰテサロニケ5章17節、Ⅱテモテ3章16~17節、ヤコブ5章17~18節)
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『大切なのは新しく創造されることです』

2019年7月28日 主の日礼拝式メッセージ要約
聖書    ガラテヤの信徒への手紙6章11~18節  
メッセージ   『大切なのは新しく創造されることです』  
メッセンジャー  田中文人牧師

 ガラテヤの信徒への手紙も最後のまとまりになりました。
 1.古い自分:キリストを信じて内側(魂)が新しくされる前は、皆古い自分で生きています。その時の生きる基準と価値観は何でしょうか?おそらく、自分を守るためにはどうしたらよいか、周りの人たちからはみ出さないように等ではないでしょうか?人によっては、何をするにしても「1番」であること、あるいは、「お金さえあれば生きていける」といった人生観かも知れません。いまから約2000年前のガラテヤ地方にいたクリスチャンの中にも、キリストを信じていながらまだ古いところで生きていた人たちがいました。彼らは、ユダヤ教からキリストを信じる様になったクリスチャンで、キリストを信じるだけでなく、信じたならばユダヤ教時代の割礼も受けなくてはならないと人々に教えていました。結局彼らはローマ帝国からの迫害を恐れ、自分を守ろうとしていたと考えられます。キリストを信じてはいましたが、新しく造り変えられてはいなかったと言わざるを得ません。
 2.キリストによる新しい人生:古い自分に生きることは、一見安全の様に思えます。ですが実際には、平安もなく窮屈で自由もありません。そのままで一生を終えるならば、行き着くところは、「永遠の滅び」です。生きている間は何とかなっている様に思えても、死は必ず全員にやって来ます。「人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まって」います(ヘブライ9章27節)生きている間に魂が新しく造り変られていないならば、永遠の滅び(神様もイエスさまもおられない所)に定められてしまいます。
 ですが神様は人を何とかして永遠の滅びから救い出す道を開いてくださいました。その道であり真理であり命そのものが、御ひとり子イエス・キリストです。イエスさまが十字架の上で私たち全人類の身代りに死んでくださり、その時流された血で私たちの罪(聖書の価値観から外れた的外れ)を買い戻してくださいました。ですから、このイエスさまを「私の救い主」と心で信じて口で告白するだけで、誰でも罪が赦され、永遠の命の約束が与えられます。イエスさまは十字架から三日目に歴史の事実死者の中から復活し、死にも打ち勝たれました。復活の初穂(第一号)になってくださいましたから、私たちもイエスさまがもう一度来られる再臨の時、同じ復活の恵みにあずかれます。そして、キリストを信じていた人たちは全員完全な天に迎え入れられます。死が終わりではなく、復活と天国に望みを持ってこの世を生きるようになりますから、キリストを信じる人生に絶望はありません。
 3.新しい人生の価値観:例えばイエスさまは、「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」と言われました(マタイ5章44節)これは明らかにこの世の基準とは違う神の国の価値観です。イエスさまに罪を赦してもらい、復活を信じて永遠の命の約束まで与えられたキリスト信仰者は、この世に生きていながら、この様な聖書(神の国)の価値観で生きることを願い出るようになります。私たちの力や努力ではとても出来ません。そこで助け主である聖霊の導きが必要です。聖霊の働きと導きによって神の国の価値観に生かされますから、キリスト信仰者が増えれば、この世も変わって来るはずです。そこに、永遠に変わることのない満たしと祝福があります。今週も日々新しく造り変えられながら、キリストの弟子の歩みに遣わされましょう。
(参考聖書箇所:マタイ5章44節、Ⅱコリント5章17節、ヘブライ9章27節)

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『どっちつかずでなく』

2019年7月21日 主の日礼拝式メッセージ要約
聖書    列王記上18章20~40節  
メッセージ   『どっちつかずでなく』  
メッセンジャー  田中文人牧師

 多くの学校では、夏休みに入ったことと思います。夏は、祭りの季節です。祭りも日本の文化・伝統といわれますが、多くは神輿をかつぎ、偶像と関係しています。神様(創造主)は、偶像とそれを礼拝することを最も嫌われます。

 1.主にも偶像にも仕えていた民:預言者エリヤが用いられていた時のイスラエルの民は、父なる神様(創造主)を礼拝してはいました。ですが、バアル他偶像も拝んでいました。アハブ王やその妻イゼベルから、ご利益があると聞かされていたのかも知れません。そこでエリヤは、すべてのイスラエルの民に「あなたたちは、いつまでどっちつかずに迷っているのか。」と迫りました(21節)。この質問に民は何も答えませんでした。そこでエリヤは、火をもって答える神の方が生きて働いておられる本物の主であるはずだから、それぞれ雄牛を裂いて薪の上に乗せる様に提案しました。これに民は賛成し、早速、献げものの雄牛などが用意されました。
 2.生きて働いておられる主に信頼していたエリヤ:バアルの預言者たちは450人、一方、主の預言者はエリヤひとりでした。ですがエリヤは、数が多いバアルの方から献げものを備え、その神が火をもって答えられるかどうか彼らに優先権を与えました。ここにもエリヤが唯一の主を信頼していたことが現わされています。バアルの預言者たちは彼らのならわしに従って火が降る様に願いましたが、何も起きませんでした。エリヤは彼らを嘲笑しました。ついに彼らはこれもバアル信仰のならわしに従って剣で身を傷つけ合うことまでし出しました。それでも何も起こりませんでした。
 続いてエリヤの番になりました。まず、イスラエル12部族を現わす12の石で祭壇を築き、礼拝の場所を整えました。水が流れる様に溝を掘り、祭壇に薪を並べ、その上に切り裂いた献げものの雄牛を置きました。そして、4つの瓶に水を入れ、献げものと薪に注ぎかけました。火が付き難くする意味でも水は3度かけられました。水不足にもかかわらず、これだけの準備をしたところからもエリヤが生きて働いておられる主を信頼していたことがわかります。
 3.エリヤの祈り:献げものを献げる時刻(礼拝の時)になるとエリヤは、イスラエルの神、主よ、あなたがイスラエルにおいて神であられること、またわたしがあなたの僕であって、これらすべてのことをあなたの御言葉によって行ったことが、今日明らかになりますように。…そうすればこの民は、主よ、あなたが神であり、彼らの心を元に返したのは、あなたであることを知るでしょう。」(36、37節)と祈りました。「火を降らせてください。」ではなく、主がイスラエルにおいて神様であることを示してくださるように、何より、このことを通して民が神様に立ち帰ることを願うとりなしの祈りです。
 4.主にのみ信頼する歩みを:私たちもイエスさまを信じていながら、偶像にも頼っているところはないでしょうか?イエスさまは、金持ちの青年に財産を貧しい人たちのために手離すように、それから従って来るように言われました。この青年にとっては、お金が偶像になっていたからです。目に見える何かを拝んでいなくても「これだけは手離せません…。」ということがあるならば、それも偶像です。それらに頼らず手離し、「どっちつかずではなく」キリストの弟子の歩みに今週も遣わされましょう。(参考聖書箇所:申命13章、使徒17章16節、エフェソ5章5~8節、Ⅰテモテ2章4節)
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『弛まず善を行ないましょう』

2019年7月7日 主の日礼拝メッセージ要約
聖書    ガラテヤの信徒への手紙6章1~10節  
メッセージ   『弛まず善を行ないましょう』  
メッセンジャー  田中文人牧師

 ガラテヤの信徒への手紙も最終章に入ります。今日のところでパウロは、「たゆまず善を行」うように勧めています。キリスト信仰者が行なう「善」は、神様が喜ばれること=御霊の実を結ぶ歩みです(ガラテヤ5章22~23節参照)。その「善」は、どの様な人間関係と歩みになるでしょうか?

 1.人を裁かず互いに重荷を担い合うように:クリスチャンの歩みをしていても様々な誘惑に合います。時として、衝動的に御霊の実とは逆の肉の業=神様が喜ばれない行動=に走ってしまうこともあります。信仰の友(教友)がその様な道に逸れてしまったとき、元の御霊の実を結ぶ道に戻れるよう、関係を保ち導くようにパウロは勧めています。また、自分自身も道を外さないよう十分注意するようにガラテヤの信徒たちに書き送っています。一旦、道を逸れた人が戻るところには多くの労苦が伴います。その視点からも、裁かず、見離さず、柔和な思いで労苦を共にすることが大切です。それが、「互いに重荷を担い」合う歩み(2節)です。
 2.義務と責任は果たすように:一方「めいめいが、自分の重荷を担う」ようにも勧めています(5節)。この「重荷」は、2節の「重荷」とは違う意味です。明確に区別出来ず重なる意味合いもありますが、2節の方は「労苦」、5節の方は「果たさなくてはならない義務、責任」です。いまから約2000年前のガラテヤ地方のキリスト教会には、しっかり献金しない信徒がおり、そのために、御言葉を専門に教える人たちの必要が満たされていないという課題があった様子です。その義務と責任は、ひとりひとりがしっかり果たさなくてはなりません。これも神様に喜ばれる「善」です。
 3.霊に蒔くように:畑に麦の種を蒔くならば、麦が成長し刈り取ります。麦を蒔いたのに米を収穫することはありません。人生も同じです。肉に蒔くならばその刈り取りは滅びです(ガラテヤ5章19~21節参照)。一方、霊に蒔くならば、その刈り取りは、永遠の命です。神様は全員永遠の命に与ることを願っておられます(Ⅰテモテ2章4節参照)。そのために御ひとり子イエスさまをこの世に送ってくださいました。イエスさまは、全人類の罪を赦し買い戻すために十字架で死なれ、救いの御業を実現されました。そして、十字架から3日目に、歴史の事実、死者の中から復活され、いまも生きて働いておられます。このイエスさまを「救い主(キリスト)」と受け取るだけで天国行きの切符(罪の赦しと永遠の命の約束)がいただけるのですから、これ程の良い知らせ(福音)はありません。
 4.霊に蒔くために:霊に蒔き、御霊の実を結ぶことは、私たちの力では出来ません。私たちは、そこを願って、聖霊の助けと導きを祈りましょう。イエスさまの許に重荷をおろし、イエスさまの軛を負い学びましょう(マタイ11章28~30節)。イエスさまこそ最も柔和な、神様であり人です。すぐに道を逸れてしまう私たちを見捨てず天につづく道へ招き続け、励まし、導いてくださいます。今週もこの救い主に信頼し、たゆまず善を行う1週間に遣わされましょう。(参考聖書箇所:マタイ11章28~29節、Ⅱテサロニケ1章11~12節)

「慰めと愛に生きる」

2019年6月30日 主日礼拝メッセージ要約   
聖書:ローマの信徒への手紙12章9~12節(新共同訳)
メッセージ題:「慰めと愛に生きる」
メッセンジャー:河野正成神学生
 ローマの信徒への手紙は、キリストの使徒であるパウロによって、ローマのキリスト者たちが直面している諸問題に対して現実的に応えようと書かれた手紙です。手紙の中で11章までは「信仰による義」について語っており、キリストが私たちの罪の身代わりとなって、鞭打たれ、ののしられ、十字架上で死んで下さったこと、また、三日目に復活されたことによってキリストの愛を知り、キリストの愛に生かされていることを信じる信仰があるからこそ、主の平安と感謝と喜びに満たされて生活できるのではないでしょうか。
 今日取り上げました12章からは実際的なクリスチャン、私たちの生活についての勧めが書かれてあります。12章9節・10節、「愛には偽りがあってはなりません、悪を憎み、善から離れず、兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい。」大事な言葉です、愛に偽りがあったら相手を裏切ることになりますから、家庭でも、教会でも人と人の一致が出来ません。キリストにある愛に於いて一体とされるには、信仰によって培われる愛が確かなものとなって行かなければなりません。教会の兄弟姉妹に対して、キリストの愛で愛し合い、互いに尊敬し相手を優れた者と思うところに、美しい愛の現実があります。私たちの交わりの中心は教会であり、イエス・キリストです。12章11節、「怠らず励み、霊に燃えて、主に仕えなさい。」人間の熱心は冷めやすいものです、しかし、真実の愛から生まれた熱心は冷めることがありません、それには、喜びをもって絶えず励み続けることなのです。 
 クリスチャンの一週間を考えてみますと、まず、日曜日の礼拝に出席するところからスタートします、礼拝でキリストの御言葉をいただき、それに一人一人が応答して悔い改めと希望に導かれます。さらに牧師の祝禱を受けて、感謝を込めて力強く「アーメン」と応えつつ礼拝から宣教へと遣わされていきます。私にとって主日礼拝とは、キリストに呼び集められ、愛する兄弟姉妹と共に、声高らかに主を賛美し、御言葉によって、いろんな問題、思い悩みを解き明かしてくださることを期待し、ゆだねることです。「キリストに愛された者として他者を愛さずにはおれない。」「キリストが成してくださったことを他者にせざるを得ない。」これは主の恵みだと考えます。12章12節、「希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈りなさい。」
 誰もが経験する挫折や悲しみ、仕事や人間関係の悩み、人生の岐路に立つ時、聖書の御言葉に触れ、キリストの愛に包まれたならなんと幸いなことでしょうか、また、人間は一人で生きていくことはできません、ある時は、他者を助け、別な時は他者に助けられ、あわれみ深い、相互扶助の愛の働きによって生きていけるのです。キリストは「われに従え」とすべてのキリスト者に漏れなく手を差し伸べて招いておられます。
 主は慰め主:ヨハネによる福音書8章に、姦淫の現場でつかまった女に対して、イエス様に律法学者やファリサイ派の人が、律法には石打にするように書かれていると言いました。イエス様が、「あなたたちの中で罪のないものが石を投げよ」と言われた時、誰もその場にいなくなったのです。「私もあなたを罪に定めない。行きなさい、これからは、もう罪を犯してはいけない。」・・・イエス様は女に、ただ、慰めをお与えになり生きる者としてくださったのです。私たちも、律法学者やファリサイ派の人と同じで、人の罪については興味を持ちます、そしてその人を裁いたり陥れようとします、しかし、そのような自分こそが、いかに罪深いものであるか知らされます。そこで、しかし、私たちの罪をイエス様が引き受けて赦してくださった方の前では、もう罪を犯さない悔い改めの新しい生活がイエスと共に始まっているのです。自分のために悲しんでくれる人の姿を見る時、大きな慰めを感じます。悲しみや涙は不思議な力を持っています。その奥から、涙の向こうから愛と慰めが伝わってきます。私たちは、十字架につけられたままのイエス様をいつも心に覚えておきたいものです。
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霊の導きに従って前進しましょう

2019年6月23日 主の日礼拝メッセージ要約
聖書    ガラテヤの信徒への手紙5章16~26節  
メッセージ   『霊の導きに従って前進しましょう』   
メッセンジャー  田中文人牧師

 1.自由の目的:クリスチャンは、キリストにある自由を得ています。その自由は、自分がやりたいことをやりたいようにする自由ではありません。「愛によって互いに仕え」合う(5章13節)ための自由です。
 2.肉と霊の対立:ですが、我身を振り返るならば、隣人を愛せない自分にも、その前に、神様を愛せていないことに気付かされます。むしろ、肉(キリストを信じる前の古い自分)がなお顔を出して来ます。パウロ自身同じ課題と霊の戦いをしていました(ローマ7章参照)。今日の聖書箇所でも、「肉と霊とが対立し合っているので、あなたがたは、自分のしたいと思うことができないのです。」(17節)と書いている通りです。
 罪は十字架の血で赦されました。古い自分もキリストと共に十字架に付けました。ですが、罪がなくなったわけではありません。なお私たちの内側に残っています。ですから、日々古い自分に死に、新しく造りかえられる必要があります。
 3.肉のリスト:古い自分(罪のリスト)は、次の通りです。「姦淫、わいせつ、好色(=性の乱れと乱用)、偶像礼拝、魔術、(=唯一の創造主を礼拝せず頼らない背信行為)、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです。」(19~20節)いまから2000年前のガラテヤ地方の教会には、特に挑み合ったり、ねたみ合うような人間関係があったようです(25節)。
 これら肉のリストをそのままにしておくならば、「神の国を受け継ぐことはできません。」(21節)せっかくキリストを信じて、自由をいただいたにもかかわらず、脱落してしまうならば、これ程残念なことはありません。何より、神様、イエスさまご自身が悲しまれます。
 4.御霊の実:そこで願い出たいことが、やはり九つの「御霊の実」です。「愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。」(22~23節)
 ひとりでも多くの人がこの様な人生を歩むならば、社会で起きている多くの事件や事故は防げるはずです。ひとつひとつの事件事故には、いくつもの要因があり、それらが複雑に絡み合って表に現われていることは間違いありません。ですが、突き詰めていくならば、結局おおもとは、人の内側にある罪が原因です。
 5.御霊の実を結ぶために:4.の「実」は、私たちの努力や鍛錬によっては得られません。ですが、聖霊の満たしと導き、助けによるならば結ばせていただけます。そのために、1)罪を認めて十字架の血による赦しを受け取りましょう。2)すでにキリストを信じている人は、折りに触れ、救われた時のことを思い出しましょう(24節)。3)毎日聖書の御言葉につながり続け、示された聖句に信頼してやってみましょう。4)聖霊の導きによって父なる神様との霊の交わり(祈り)を続けましょう。イエスさまが神様に祈りを取り継いでくださいます。「神様ならば、どの様にされますか?」と尋ねる祈りをするだけでも自分の思いと考えで突き進まず、御心に適う歩みに導かれます。今週も御霊の実を結ぶキリストの弟子の歩みに遣わされましょう。
(参考聖書箇所:ヨハネ15章5節、ローマ7章、コロサイ3章12~14節)
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真実であることを知るために

2019年6月16日
主の日(父の日)礼拝メッセージ要約
聖書    列王記上17章17~24節  
メッセージ    『真実であることを知るために』   
メッセンジャー   田中文人牧師

 キリストを信じていても、不慮の災害や事故に会うこともあります。病気にもなりますし「なぜこの様な労苦をしなくてはならないのか?」と言いたくなる様な状況も体験します。その様な中から父なる神様にイエス・キリストの御名によって祈ります。その祈りが聞かれ、助け出されたとき、どこに思いと目を向けるでしょうか?
 1.不平を言ったやもめ:3年以上の間、雨が降らず旱魃が続きました。その間もサレプタのやもめが持っていた壺の粉は尽きることがありませんでした。このことによって、預言者エリヤもやもめとその息子も飢えることなく生きていくことが出来ました。ところが、その息子が重い病に罹り、死んでしまったのです。飢饉の中、生活が守られる中での死でしたから、やもめは計り知ることの出来ない悲しみを感じました。そしてエリヤに「神の人よ、あなたはわたしにどんなかかわりがあるのでしょうか。あなたはわたしに罪を思い起こさせ、息子を死なせるために来られたのですか。」(18節)と言いました。人の思い、感情からするとこのやもめの訴えは、当然です。ですが、聖書の原則に照らすならば、それまでの恵みを忘れた「不平」とみなされます。
 私たちも同じように言ったり訴えたりすることがあるのではないでしょうか?ですが、その様なときも神様は見捨ててはおられません。これまで与えられた恵みを数え、感謝しましょう。「どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」(Ⅰテサロニケ5章18節参照)
 2.祈ったエリヤ:やもめからの訴えを聞いたエリヤは、彼女の息子を受け取り、自分の部屋に行き、寝台に寝かせました。そして、父なる神様に祈りを通して思いを正直に申しのべました。神様は私たちの心の中も全部ご存じです。悲しいときには「悲しい」と、理解出来ないときには「わかりません。」と祈りましょう。人に訴えるならば「不平」になりますが、神様に申し述べるならば祈りになります(詩編13編他参照)。
 3.息子の蘇生を願ったエリヤ:続いてエリヤは、やもめの息子が生き返るように神様に祈りました。この祈りは聞かれ、息子は生きを吹き返し、やもめに帰されました。神様は、御心に適う願いは、人の目に不可能と思うようなことでも実現してくださいます。私たちも本当にそう願っていることであるならば、真剣に祈りましょう。もしも御心に沿わない願いのときは、次第に祈りが修正されていきます。
 4.願いがかなえられた後:生き返った息子を戻してもらったやもめは、「今わたしは分かりました。…あなたの口にある主の言葉は真実です。」(24節)とエリヤに言いました。
 祈りが聞かれ、私たちの病気も癒されることがあります。最悪の状況の中から助け出される体験も与えられます。そのとき、「癒されて感謝!」「助け出されて感謝!」で終わらず、神様もイエスさまも聖霊なる神様も生きて働いておられること、聖書の御言葉が真実であることを「知りました」と告白に導かれるならば幸いです。
 「苦しみに会ったことは私にとってしあわせでした。それにより私は、あなたの掟を学びました。あなたの御口の御教えは、私にとって/いく千もの金銀にまさります。」(詩篇119篇71~72節、新改訳2017)
(参考聖書箇所:詩編22編25節、ヨハネ11章、Ⅰコリント10章13節、Ⅰヨハネ5章14~15節、ヤコブ1章2~3節)
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大宣教命令に押し出されて

2019年6月9日 主の日(ペンテコステ)礼拝メッセージ要約
聖書    マタイによる福音書28章16~20節  
メッセージ   『大宣教命令に押し出されて』   
メッセンジャー  田中文人牧師

 1.ペンテコステについて:今日は、ペンテコステ(聖霊降臨日)です。十字架で死なれたイエスさまは、十字かから三日目に歴史の事実死者の中から復活されました。それから40日間、直弟子たちをはじめ多くの人々に復活の姿を現わされました。そして、天に引き上げられ、神様の右の座(父なる神様と等しいところ)に着かれました。その10日後、約束通り、弟子たちの上に聖霊が降りました。旧約の律法では、大麦の初穂の束を献げる日から数えて50日目、イエスさまの復活から50日目に当たるこの日がペンテコステです。その時から弟子たちは力を受け、各地に遣わされ、救い主イエス、キリストを宣べ伝えていきました。
 2.大宣教命令:今日の聖書箇所マタイによる福音書の最後は、イエスさまが弟子たちに告げられた「大宣教命令」です。その命令は、「すべての民をわたしの弟子に」するように(19節)です。「行って…父と子と聖霊の名によってバプテスマを授け…あなたがたに命じておいたことをすべて守るように」しながら、弟子づくりの業をするように、です。イエス・キリストを「私の救い主」と信じてクリスチャン人生を歩むこととは、キリストの弟子になり、その道を進むことです。
 3.キリストの弟子の自由:イエスさまはご自分を信じたユダヤ人たちに、「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」(ヨハネ8章31~32節)と言われました。ここは、今年度の有明教会の年間主題聖句です。いまの私たちにとってイエスさまは、聖書の御言葉です。イエスさまは、真理そのものです。毎日御言葉にとどまり、知らされた真理に生きるとき、自由が与えられます。
 その自由は、やりたいことをやりたいようにする自由ではありません。その様な自由は、逆に「不自由」です。聖書から知らされる神の国の原則と真理に生かされる自由が、創造主から命が与えられている人間にとって一番ピッタリする自由です。それは、「霊」の実(御霊の実)を結ぶための自由です。御霊の実は、「愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制」です(ガラテヤ5章22~23節)。
 4.共にいて力をくださるイエスさま:上記の様なキリストの弟子づくりの業に=その前に私たち自身、キリストの弟子に成り直すように=命じられても、尻込みするのが、私たちの実態ではないでしょうか?そこで思いと目を向けたい聖句が「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」(20節)です。復活のイエスさまが世の終わり(再臨)の時までいつも共にいてくださいます。これだけで、安心です。
 ですがイエスさまは、ただ私たちと共にいて見守ってくださる方ではありません。「天と地の一切の権能を授かって」おられます(18節)。自然界はじめ、すべてを治める力を持っておられ、私たちを励まし、聖霊を送ってくださるお方がイエスさまです。感謝のうちに、キリストの弟子の歩みに、弟子づくりの業に遣わされましょう。
(参考聖書箇所:レビ23章、マルコ16章15節、ヨハネ8章31~32節、ガラテヤ5章22~23節)

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イスラエルの神主は、生きておられるのですから

2019年6月2日 主の日礼拝メッセージ要約
聖書    列王記上17章1~16節
メッセージ   『イスラエルの神主は、
           生きておられるのですから』   
メッセンジャー  田中文人牧師

 キリスト信仰は、イエス・キリストを「私の救い主」と信じるところからはじまります。信じたイエスさまに信頼し、従う弟子の歩みがクリスチャンです。その主にどれだけ信頼しているでしょうか?
 キリストの弟子の歩みをしていても、課題に直面しますし、労苦もあります。ですが、その様なとき、知らされた御心に信頼し従うならば、主が生きて働いておられることを実感でき、さらに信仰が深まります。
 1.自然をも支配される神様:いまから約2800年前、北イスラエルの王アハブは、唯一の神主ではなく、妻イゼベルが拝んでいたアシェラやバアルといった偶像の神々を認めるだけでなく、自分も礼拝していました。そこに民も誘い込み、神様に対して罪を犯していました。生きて働いておられる神様は、その様なアハブに、雨を降らせることが出来るのもご自身だけであることを分からせるために、預言者エリヤによって「数年の間、露も降りず、雨も降らないであろう。」(1節)と告げられました。それから3年間、実際に雨は降らず、大飢饉にみまわれることになりました。
 2.エリヤを養われた神様:預言者エリヤも飢饉の影響を受けました。ですが神様は、ケリテ川の水を飲むように、毎日朝と夕、烏が運んで来るパンと肉を食べるように言われました。烏は、獰猛な鳥です。人にパンや肉を毎日2回運んで来ることなど、人の知恵で考えることは出来ません。ですが、烏も神様から命が与えられ、生かされています。御業のために烏をも用いられるお方が生きて働いておられる神様です。
 3.御心に従うところに祝福が:飢饉はまだまだ続いたため、ケリテ川の水も枯れました。すると神様はエリヤにイゼベルの出身地偶像礼拝の中心地であるファレパテに行く様に言われました。その様な所で神の人預言者エリヤを養って来れる人がいることも人の知恵では考えられません。ですがエリヤはこの御言葉にも従い出かけました。ケリテ川に行ったときと同じ様に、ここにもエリヤの信仰が現わされています。
 行ってみるとツァレプタの町の入口デ薪を拾っているやもめに会いました。エリヤは彼女に水を器に少し持って来て来れるように、パンもひと切れ手に持って来るように頼みました。やもめは、いま持っている壺の粉でパンを焼いて食べるならば、自分と息子はあとは死ぬのを待つだけだとエリヤに話しました。エリヤは、その状況を受け止めて、さらにしかしその前に自分にパンをつくって持って来るように言いました。やもめが従うと、壺の粉は尽きることなく、エリヤも自分たち親子も養われたのです。
 生きて働いておられる主は、自然界もからすも、そして偶像で満ちていたツァレプタに住んでいた貧しいやもめをも用いられます。ですが、エリヤとやもめの様に御言葉に信頼し、従う人たちに御業を行なわれます。今週も、その主に信頼し、聖書の御言葉に従うキリストの弟子の歩みに遣わされましょう。
(参考聖書箇所:マルコ8章23~27節、ローマ1章17節、Ⅱテモテ3章12~14節、Ⅰヨハネ2章6節、)


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自由にされたのですから


2019年5月26日 主の日礼拝メッセージ要約
聖書    ガラテヤの信徒への手紙5章1~15節
メッセージ   『自由にされたのですから』   
メッセンジャー  田中文人牧師

 私たちは、「自由」を好みます。ですが、自分のしたいことをしたい様に出来ることが自由でしょうか?本物の自由は、救い主イエス・キリストにある自由です。では、それは、何からの自由、何をするための自由でしょうか?
 1.5、6章について:ガラテヤの信徒への手紙も今日から後半の2章に入ります。4章までパウロは、キリスト信仰の教理の面からガラテヤの信徒たちに書き送って来ました。そこを踏まえ、5、6章では、どの様に生きていったらよいかを勧めています。「実践編」とも言えますので、これまでよりも身近で親しみやすい内容です。
 2.律法からの自由:キリストにある自由は律法から解放された自由です。いまから2000年前のガラテヤ(トルコの国)地方には、キリストを「救い主」と信じるだけではクリスチャンになったことにはならず、神様がアブラハムに告げられた割礼も必要、と主張する人たちがいました。ですが、そこからも解放されたのですから、救われるためにはキリストを信じるだけで十分です。
 もしも律法を守らないと救われないとするならば、律法全部を完全に守らなくてはならなくなります。ですが、モーセの十戒も、ひとつが守れないならば、十戒全部を守れなかったことと見なされます。それくらい神様は聖なるお方です。それに対して十戒のひとつさえも守れないのが人です。それら十戒はじめ律法全部を守り実現してくださった神であり人であるお方が、イエス・キリストです。ですから、そのキリストを信じるだけで誰でも救いの恵みにあずかれます。
 私たちも「…でないと救われない。」「…でないとクリスチャンとはいえない」と思っているところはないでしょうか?それらに縛られ、本来の自由から外れてしまっているところはないでしょうか?本質(Ⅰコリント15章3~4節)は外してはなりませんが、そこさえおさえられているならば、あとのことには拘り過ぎず、神の国の交わりに生かされたいものです。それが、キリストにある自由なクリスチャン人生です。
 3.愛の業を実践する自由:もうひとつの「自由」は、律法から解放された自由を原動力に愛の業に励むことです。ガラテヤの信徒たちは、どうやら「うぬぼれて、互いに挑み合ったり、ねたみあったり」していたようです(ガラテヤ5章26節参照)。「互いにかみ合い、共食い」までしていたようです(〃15節参照)。これでは、この世の交わりよりも愛と配慮に欠けており、その結果は、互に滅ぼされることになります。間違った教えに惑わされるならば、その様なところに落ち入りかねません。そこで、間違った教えに健全な信徒たちを誘い込む様な者は「いっそのこと自ら去勢してしまえばよい。」(12節)とパウロは厳しく批判しています。
 愛の業に励み互に愛し合うこと、それはイエスさまも教えられましたし、それ以前にモーセの律法の書に示されています(レビ19章18節)。私たちも復讐はすべてをご存じの神様に委ね、敵のためにもとりなしの祈りをすることを願い出ましょう。そこに生かされることが、本当の自由な人生です。その模範もイエス・キリスト救い主です。
(参考聖書箇所:レビ19章18節、Ⅰコリント15章3~4節、Ⅱヨハネ5~6節)
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主の前に富む歩みを

2019年5月19日 主の日礼拝メッセージ要約
聖書    列王記上16章1~34節
メッセージ   『主の前に富む歩みを』   
メッセンジャー  田中文人牧師

 1.今日の聖書箇所には、アサが41年間南ユダの王であった間、北イスラエルでは、5人の王たちがその座に着いたことが記されています。中には、3人目のジムリの様に謀反を起こして王座を奪い取ったものの、7日間だけで終えた人物もいました。彼は、次の王オムリと民にティルツァに包囲されると、自ら王宮に火を放って死にました。日本の戦国時代にも似た様な天下取りがあったことを思い出し、聖書が身近に感じられるかも知れません。
 2.聖書の基準:ところで、聖書では、何を基準に王たちを評価しているでしょうか?例えば4人目のオムリは、「主の目に悪とされることを行い、彼以前のだれよりも悪い事を行った。」(25節)とあります。彼は、政治経済、国民の生活向上の面では、大きな業績を残したといわれています。ですが、ここにそれらは何も書き残されてはおらず、ただ、首都をティルツァからサマリヤに移したことだけが記録されています。
 聖書の基準は、唯一の神、創造主の存在を認め信じ礼拝していたか、その主によく聞き御心に適って国を治めていたかどうかです。この視点で、北イスラエルの王たちは「悪王」であり、オムリは、それまでの王たちの中で最悪でした。ですが、オムリの後のアハブは、さらに「最悪の王」と評価されています。彼は異教の国から妻を迎え、その偶像神を認め、自分も拝みました。これは、一見民主的に思えますが、生きて働いておられる創造主から見れば、背信行為に他ならず、大きな「罪」でした。この罪が元になり、王たちは、野心に燃え、王位を狙う野望を実行に移していったといえます。その様な国内に平和はなかったことは明らかです。
 3.神様の憐みと働き:唯一の創造主は、最悪の王が治める国にも臨み、働いておられました。それが、バシャを「塵の中から引き上げて、わが民イスラエルの指導者とした」こと(2節)です。民を神の国の原則、祝福の中に引き戻すために、塵の様に小さなバシャを立ててくださいました。しかし彼は、それに答えず、逆に民を偶像に走らせ、神様を怒らせたのです。神様は、立ち帰る機会を与えてくださいます。問題は、人の選び取りだといえます。
 4.私たちの富:現代でも祝福の原則は変わりません。イエスさまは、地上にではなく天に宝を積む様に教えられました。出世も人を押しのけて奪い取るのではありません。「自分が自分が…」の生き方は、今日の北イスラエルの王たちと同じです。そこには、平和も祝福もありません。それらの野心はじめ、肉の思いはイエスさまと一緒に十字架に付けてしまうところから、自由で祝福されるキリストの弟子の歩みが始まります。人の目や評価を気にするのでなく、神様、イエスさまが喜ばれる視点を基準に生きるよう、願い出ましょう。社会の基準と違う歩みをするならば、摩擦も起きます。ですが、日々聖書の御言葉に聞き従い、祈るならば、神様は必ず聖霊の助けを与えてくださいます。
(参考聖書箇所:ルカ12章21節)
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キリスト信仰の目標

2019年5月12日 主の日(母の日)礼拝メッセージ要約
聖書    ガラテヤの信徒への手紙4章12~31節  
メッセージ   『キリスト信仰の目標』   
メッセンジャー  田中文人牧師

 今日は、「母の日」です。母を与えてくださった神様に、またそれぞれの母に感謝しましょう。有明教会では、例年同様、教会の母親役の女性方の祝福祈祷をいたします。
1.キリスト信仰者の目標:今年の母の日の今日聖書から聞き取りたいメッセージは、キリスト信仰者にとっての目標は何かということです。イエス・キリストを「救い主」と信じているクリスチャンは、何を目指して生きているのでしょうか?
 それが、キリストがひとりひとりの内側に形づくられること(19節)です。キリストを人生の土台に据えること、そこから外側にキリストの香が放されることと言えます。クリスチャンの目標は、キリストご自身であり、キリストに似るところに近か付けられていく歩みです。
2.もう1度産みの苦しみをしていたパウロ:残念ながらこの時ガラテヤ地方のクリスチャンたちは、キリストを目標にする歩みから離れていました。それを知ったパウロは、彼らを諦めるのでなく、何とかして以前の様な信仰の歩みに戻ってほしいと心から願っていました。その思いがここに書き表わされています(20節)。
3.愛の業を思い出すように(13~15節):パウロは、ガラテヤの人たちがパウロたち一行を心よく、愛をもって受け入れてくれたことを思い出すようにうながします。特にパウロには、はっきりした病名はわかりませんが、風土病か何かの持病がありました。その様なパウロを彼らは、さげすんだり、忌み嫌ったりせず、神の使いかキリストご自身かの様に受け入れてくれました。それだけでなく、できることなら、自分の目をえぐり出してもパウロに与えようとする程でした。
4.パウロのようになるように(12節):ところで、「わたしもあなたがたのようになったのですから、あなたがたもわたしのようになってください。」(12節)は、どの様な意味でしょうか?パウロは、「わたしは神の律法を持っていないわけではなく、キリストの律法に従っているのですが、律法を持たない人に対しては、律法を持たない人のようになりました。律法を持たない人を得るためです。」(Ⅰコリント9章22節参照)と書いている様に、ユダヤ人ではないガラテヤの人々も受け入れ、交わりを深めました。しかしそれは、パウロに広い心や人徳があったからではありません。パウロは、古い自分をキリストと共に十字架に付けました。そして、生まれ変わり、内側がキリスト(聖霊)で満たされたのです。ですから、もはやいま生きているのは、内側に宿ってくださっているキリストご自身です(ガラテヤ2章19~20節、参照)。そこで、「わたしのようになってください。」は、あなたがたもキリストで満たされ、聖霊の力をいただき、キリストを目標にする人生を歩んでほしいという意味に受け取れます。
5.「自由な身の女から生まれた子」であることを感謝して(23~31節):これまで書いて来た様に、ガラテヤの信徒たちをはじめ、キリスト信仰者はアブラハムの子孫です。そこに今一度立ち帰り、キリストを目指して歩み直すようにパウロは勧めています。
 私たちも救われた時の感謝と喜びに立ち返り、キリストを目指す歩みに今週も遣わされましょう。
(参考聖書箇所:Ⅰコリント9章、ガラテヤ2章19~20節、フィリピ3章12~14節)
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ともし火に立てられたアサ王

2019年5月5日 主の日礼拝メッセージ要約
聖書    列王記15章1~34節  
メッセージ   『ともし火に立てられたアサ王』   
メッセンジャー  田中文人牧師

 私たちは、毎日様々な課題に直面します。その原因は、はっきりしていることもありますが、いくつかの事柄が組み合わさり特定出来ないこともあります。特に現代は、社会の構造も複雑で、原因を特定することは難しいともいわれます。ですが、大元の人、特にその内側は、古代から変わっていないのではないでしょうか?
 1.「善王」と「悪王」:今日の15章には、南ユダと北イスラエルそれぞれ2人ずつ計4人の王について書いてあります。その内、南ユダの王アビヤムと北イスラエルの2人の王ナダブとバシャの3人は、「悪王」でした。アビヤムの後、南ユダで41年間王座にあったアサだけが「善王」でした。
 聖書の「善」「悪」の規準は、どれだけ国を発展させたか、周りの国々と良い関係を保つために、賢い外交政策を行なったか、国民に喜ばれる政治をしたか等ではありません。その心が「主と一つで」あったか(14節)、「主の目にかなう正しいことを行」ったか(11節)です。
 2.アサ王の改革:父アビヤムの時代、南ユダも北イスラエルと同じ様に、王をはじめ民も偶像を拝み、倫理道徳面でも乱れていました。その様な中、アサ王は、三つの改革を実行しました。1)神殿男娼をその地から追放しました(12節、2)先祖たちが作って拝んでいた偶像をすべて取り除き(12節)、キドロンの谷で焼き捨てました(13節)。さらに、3)母マアカを太后の位から退けました(13節)。このマアカは、彼の祖母で、育ての母だったかも知れません。彼女が偶像を拝んでおり、その影響が王の家族に留まらず、民にまで及んでいました。そのマアカをアサは退けたのですから、彼が、痛みを伴う大きな改革をしたことがわかります。アサは、何よりも神様を第一に愛し、隣人との関係はその次にする(マルコ12章30~31節)神の国の原則に従ったと言えます。
 3.アサを通して果された神様の約束:この様に見て来ると、アサは、大変な信仰者だったように読み取れます。確かに彼は、「父祖ダビデと同じように主の目にかなう正しいことを行」ないました(11節)。ですが、アサといえども罪人のひとりに過ぎませんでした。例えば、北イスラエルから攻め込まれそうになった時、アラムの国に貢物を送り、北イスラエルを食い止めてもらう策を取りました。大事な時に、神様ではなく、人に頼ったのです。また、アサ王自身、晩年に足が悪くなりましたが、その時も医者にだけ頼り、主に祈りませんでした(歴代下16章参照)。
 その様なアサが上記の様な改革を実行し、「善王」に数えられたのは、神様ご自身が、ダビデに子孫を絶さないと告げられた約束を、アサを通して果してくださったことにほかなりません。アサは、「ともし火」に立てられたといえます。
 私たちも神様の祝福の約束=イエスさまの十字架の血による罪の赦しと永遠の命の約束に与っています。複雑に見える様々な課題も、私たちが聖書の御言葉を土台に据え、神の国の視点で見るならば、それ程難しいとは感じられなくなるのではないでしょうか?示された御言葉に従うとき、最善に導かれます。今週もその様なキリストの弟子の歩みに遣わされましょう。 (参考聖書箇所:歴代下16章、マタイ6章33節、マルコ12章30~31節、Ⅱテモテ3章11~12節)
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新しいエルサレムとしての教会

2019年4月28日説教
説教題:「新しいエルサレムとしての教会」
聖書:ヨハネの黙示録21章1節~7節
説教者:浦 肇 (日本バプテスト連盟 大牟田バプテスト教会牧師)
主題:「主は終わりの時に、私たちを含む万物を一新され、
     永遠に私たち教会と共にいて下さる」

 ヨハネは聖なる都「新しいエルサレム」が夫のために着飾った花嫁のように用意を整えて、神のもとを離れ、天から下って来るのを見ました。この聖なる都「新しいエルサレム」が新天新地の上に下ってくるというイメージです。この「新しいエルサレム」は「天の国」と理解しても良いし、ある人は花嫁と花婿のたとえから、「教会」であると言いました。もし、「教会」と理解する事が許されるなら、私たちはここに教会の二つの側面を見ることが出来ます。一つ目は、「教会」は神のみもとである天から下って来たということで、「教会」は「神的」であるということです。「教会」は神の領域に属しているということです。聖書の中にも「教会はキリストのからだ」という表現があります。それゆえ、教会は「聖い」のです。もう一つは、そのような聖い「教会」ですが、「罪赦された罪人」によって形成されていますので、その内に罪があり、「俗的な」問題が起こるということです。それは、聖書を読めば多くの例が記されています。
 さて、本日の聖書箇所は、1世紀後半の迫害下にあったキリスト者を大いに励ましたでありましょう。また、別の時代のキリスト者にとっても大きな慰めであったでしょう。実は、私たちもこの御言葉によって慰めを得ているのです。玉座に座っておられる神が言われます。「見よ、わたしは万物を新しくする。」5節と。この言葉は本日の聖書箇所の頂点とも言って良いでしょう。御座から大きな声で話す者はこれらのことを記録するようにヨハネに命令しています。6節からは神様が最後の裁き行われ、救いが成就したこと。神は最初であり最後(アルファでありオメガ)の方、すなわち全てを支配しておられる方であること。渇く者には「いのちの水の泉」から値なしに(ただで)飲ませて下さること。勝利を得る者すなわちイエスの復活における勝利に与り、神が認めて下さる人は、これらの恵みを相続する者として下さる。神が下さった良きものを受け継ぎ、神と養子縁組させて頂くということが記されています。逆に、おくびょう者、不信仰の者、忌まわしい者(不道徳な者)、人を殺す者、みだらな行いをする者、魔術を使う者、偶像を拝む者、すべてうそを言う者は火と硫黄の燃える池に投げ入れられ、第二の死を迎えるという厳しいさばきが書かれています。
ところで、有明教会には現在、入院しておられる方々、施設におられる方々、自宅で療養している方々がおられるかもしれません。また、病気と闘っている方々もおられるかもしれません。また、愛する人を失い、寂しい気持ちでいる方々や様々な問題課題を抱えている方々もおられるでしょう。殉教とは言わないまでも、イエスに伴われながらも私たち、そして教会の歩みは難儀するのです。本日の聖書箇所はそのような私たちに人生の諦観を強いるのではなく、また、現世を放棄するような彼岸感を持たせるものではありません。そうではなく、キリストがこの世界に来て下さった時から、そして、私たちがイエスを信じた時から新しいことは起こり始め、キリストの時に完成するのだから、この終末のその完成時まで忍耐して、信仰の道を歩み続けなさいと神は私たちに言われるのです。その為にはイエスに力を頂きながら、8節にある悪徳のリストの反対を行えば良いでしょう。すなわち、御助けを受けながら臆病にならず、不信仰な者とならず、忌まわしい行いをする者とならず、人を殺さず、みだらな行いをせず、魔術を使わず、偶像を拝まず、うそを言わないことであります。そのような者には主イエスにある永遠の命が約束されます。
最後になりますが、黙示録は世の終わりの啓示をヨハネが神から受けたものですから、夢や幻に溢れ分かりにくい書です。しかし、神は主イエスにあって世の終わりにこのように働いて下さることを信じます。神は「新しい天と新しい地」を創造され、新しいエルサレム(教会)を天から下して下さいます。今ここにある教会は、将来の新しいエルサレムであり、希望です。         
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『逆戻りせず、福音に生かされましょう』 

2019年4月21日 主の日(イースター)礼拝メッセージ要約
聖書    ガラテヤの信徒への手紙4章1~11節  
メッセージ   『逆戻りせず、福音に生かされましょう』   
メッセンジャー  田中文人牧師
 1.イースターを感謝して:今日は、今年の「イースター」です。「イースター」は、復活祭で、イエス・キリストが十字架で死なれてから三日目に、歴史の事実、死者の中から蘇られたことを祝い礼拝する日です。クリスマスは、12月25日と毎年決まっていますが、イースターは、春分の後の満月の直後の日曜日ですから、毎年違う日になります。今年の春分の日の後の満月が4月19日(金)でしたから、その直後の日曜日である今日がイースターです。
 2.イースターの意義:イエスさまは、十字架で流された血によって、人の罪(的外れ)を買い戻し、赦す御業をなしとげてくださいました。誰でもこのイエスさまを信じるだけで、罪が赦され、神様と断絶していた関係、人と人との関係に回復が与えられます。それでも人は皆死を迎えます。人にとって最大の課題は、何といっても「死」です。ですが、イエスさまが死者の中から復活されたことによって、最大の課題である死にさえも打ち勝たれました。そして、私たちの復活の初穂(第一号)になってくださいました。
 人にとって死はもはや終わりではありません。イエスさまがもう1度この世に来られる(再臨)の時、死んでいた人たちは全員復活の恵みにあずかります。そして生きていた時にイエスさまを「私の救い主」と信じていた人は、完全な天に迎え入れられます。その天で、神様、イエスさま、聖霊なる神様と永遠に共にいられます。
 3.「アッバ父よ」と呼べる幸い:今日の聖書箇所でパウロは、ガラテヤの信徒たちに、永遠の命の約束までいただいていることを「律法の支配下にある者を贖い出して(買い戻して)、わたしたちを神の子となさるためでした。」(5節)と書いています。罪によって断絶していた神様との関係が回復され、神様の子どもに迎え入れられたことは、『神が、「アッバ、父よ」と叫ぶ御子の霊を、わたしたちの心に送ってくださった事実から分かります(6節)。』創造主に親しく語りかけ(祈)ることが許されています。神様の子どもですから、天国を受け継ぐ相続人です。これ程の幸いはありません。
 イエスさまを「私の救い主」とまだ受け入れていない方は、イースターのこの時に神様からの招きに答えて、信じるところに一歩踏み出しましょう。そこから生まれかわる新しい人生、永遠の命の中で生かされる歩みがはじまります。
 4.はじめの信仰に立ち返って:パウロがこの手紙を書き送ったガラテヤの教会には、キリストを信じるだけでは救われたことにならず、律法に従って割礼も受けなくてはいけないと主張する偽教師が入り込み、健全だったガラテヤの信徒たちを惑わしていました。ガラテヤの信徒たちも救われる前に信じていた、力にも頼りにもならない諸霊に逆戻りし、祭儀まで守っていました(10節)。
 私たちもクリスチャン生活が長くなるうちに、救われる前の人生を懐かしく思ったり、そこに戻ってしまうようなところはないでしょうか?是非、「はじめに救われた時の信仰」に立ち返り、神様の子どもにしていただいた感謝を思い出しましょう。そして、今日のイースターからキリストの弟子になり直し、主の栄光を現わす歩みに遣わされましょう。
 (参考聖書箇所:創世2章7節、ヨハネ17章3節、Ⅰコリント15章20節)
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『キリストを着ているのですから』 

2019年4月14日 主の日礼拝メッセージ要約
聖書    ガラテヤの信徒への手紙3章15~29節  
メッセージ   『キリストを着ているのですから』   
メッセンジャー  田中文人牧師

 今週は、今年の「受難週」です。イエスさまが私たちひとりひとりの罪を赦すために、十字架にかかって死んでくださったことを、いつも以上に感謝し、示されている罪は悔い改めましょう。そして、次週の主の日(4月21日)は、十字架から三日目に歴史の事実死者の中から復活され、いまも生きて働き、私たちと共にいてくださるイエスさまを喜びの内に祝う、「イースター礼拝」を献げましょう。

 1.反故にされることのない契約(15~18節):パウロは、神様がアブラハムと結ばれた祝福の契約が、モーセに与えられた律法によって反故にされることはないと、ガラテヤの信徒たちに書き送っています。なぜならば、遺言が一端おおやけに効力を発するならば、取り消されることなどないのと同じだからです。律法は、アブラハムとキリストの間に与えられましたが、それによって信仰によるアブラハムの子孫が全世界に増やされるという祝福の約束が、変更されることはありません。
 2.律法の役割り(19~25節):ですが、律法が無意味ということではありません。その役割りは、1)「約束を与えられたあの子孫(キリスト)が来られるときまで」=律法は、イエスさまがこの世に来られるまでのものです。 2)「違犯を明らかにするために付け加えられたもの」=律法を守ろうとしても守れない自分に気付かせるものです。3)「天使たちを通し、仲介者の手を経て制定されたもの」=パウロの時代には、モーセの十戒は、天使がモーセに伝え、「仲介者」(モーセ)を通してイスラエルの民に伝えられたと信じていたようです(使徒7章等参照)。つまり律法は、直接神様が語られたものではありません。
 そこで律法の働きは、人を救い主イエスさまのもとに導く「養育がかり」です。いまから2000年前、養育がかりは、主人の子どもをしつけたり教育したりするのでなく、教師のところに連れて行く役割りを担っていたといわれています。人は律法を守ろうとしても、守れないことに気付かされ、罪悪感や罪責感に悩みます。その救いと解決は、イエスさまの十字架の血による赦しにあります。律法がなければ、罪にも気付きませんから、救われることもありません。
 3.救われたキリスト信仰者の歩み(26~29節):神であり人でもあるイエスさまだけが律法全部を実現してくださいました。ですから、「私の救い主」と信じるならば、それだけで私たちも律法を行なったこととみなしていただけます。信仰によってイエスさまに結ばれ、神様の子どもに迎え入れられます。救われるために旧約時代の割礼を受ける必要はなくなりました。
 キリストは、体なる教会の頭です。キリストを信じるひとりひとりは、キリストにつながる体の各部分です。そこでやはり、キリストを信じて救いの恵みにあずかっているのであれば、どこかのキリスト教会につながり、礼拝するだけでなく、仕えることが大切です。教会で主と人々に仕えることを通して、キリストの弟子に相応しく成長し、整えられていきます。受難週の今週、いつも以上にイエスさまの十字架の御業の貴さを思いながら、罪を悔い改めましょう。そして、キリストの弟子の歩みに遣わされましょう。
(参考聖書箇所:創世12章1~3節、使徒7章、ローマ3章20節、〃10章4節)

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『何を子孫に伝えますか?』

2019年4月7日 主の日礼拝メッセージ要約
聖書    列王記上14章21~31節  
メッセージ   『何を子孫に伝えますか?』   
メッセンジャー  田中文人牧師
 1.新年度に当たって:2019年度が始まって一週間が過ぎました。主の日は、今日から新年度がスタートします。この一年も、主の日の礼拝式を信仰生活の中心に据えましょう。一年間は短い様でやはり長いですので、様々な試みもあります。そのときも諦めず、礼拝を願い出ましょう。有明教会では、希望に応じて、主の日の朝早くや夕方に礼拝することも出来ます。祈って願うならば、神様は様々な知恵と工夫を与えてくださいます。そこに期待して共に励まし合いながら今日からの52回礼拝し続けましょう。
 2.主を怒らせたレハブアム王とユダの民:イスラエル王国4代目の王レハブアムは、神様の目から見た時、良いところもありましたが(歴代誌下11~12章参照)、北イスラエル同様偶像を礼拝する悪を行ないました。この大きな罪の結果、神様を怒らせました(22節)。
 3.罪の結果:1)周辺国との平和が保たれませんでした=「レハブアムとヤロブアムの間には戦いが絶え」ませんでした(30節)。エジプト軍も攻めて来ました(25~26節)。 2)宝を失いました(26節)=ソロモンが築いた莫大な富は、エジプト軍によって、レハブアムの治政5年目に持ち去られてしまいました。 3)レハブアムは、礼拝中も安心出来ませんでした=金の盾までエジプト軍に持ち去られたレハブアム王は、青銅の盾をつくり、近衛兵に持たせ、神殿を守らせました。王は、どこからか攻め込まれるのではないかという思いの中で礼拝していたと言えます。国外との関係にも、王自身の内側にも平安がなかったことがわかります。
 4.罪の原因:今日の短い箇所の中に2度、「レハブアムの母は名をナアマと言い、アンモン人であった。」と書いてあります(21、31節)。アンモン人は、元はアブラハムの甥ロトの子孫ですが、土着の偶像を拝む民でした。この母が、レハブアムにも偶像を拝ませたと言われています。そうでなく、唯一生きて働いておられる創造主を礼拝する母であったならば、これ程はやくイスラエル王国が分裂することはなかったはずです。また、上記の結果を招くこともなかったであろうことは、想像に難くありません。
 5.私たちが子孫に伝えること:1)信仰=もちろん、偶像を拝むところに祝福はありません。イエス・キリストによって差し出されている救いの道を伝えましょう。 2)天に積んでいる宝=地上の宝はいくら頑張って蓄えたところで、今日のレハブアムの様にアッ!という間に失われます。子孫に残し伝えるものは、天に積んでいる宝です(マタイ6章19~20節参章)。新年度を歩みはじめるこの時、天に宝を積むこととは、どの様に生きることなのか、それぞれ聖書から聞き取り祈りたいものです。最大限すべての人たちと平和な関係を保つこともそのひとつです(歴代史下12章、ローマ12章18~19節参照)。
 (参考聖書箇所:歴代誌下11~12章、マタイ6章19節、ヨハネ8章31~12節、ローマ12章17節)

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『悔い改めの機会を逸したヤロブアム』

2019年3月31日主の日礼拝メッセージ要約
聖書    列王記上14章1~20節  
メッセージ   『悔い改めの機会を逸したヤロブアム』   
メッセンジャー  田中文人牧師

 今日で2018年度が終わります。主の日も今日の31日が今年度最後です。この1年度間、4月1日から53回の主の日礼拝式を献げることが出来、主に感謝しています。
 1.アビヤの病(1~5節):北王国イスラエルの王ヤロブアムの息子が、病気になりました。命にかかわる様な重病だったと思われます。そこでヤロブアムは、妻に変装するように、パンや菓子、蜜等を持って預言者アヒヤのところに行くように命じました。アヒヤは、ヤロブアムがイスラエル十部族の王に立てられることを告げた預言者です。ヤロブアムは、アヒヤが今回も良い預言をしてくれると期待したのかも知れません。
 2.アヒヤの預言(6~16節):アヒヤは老齢のため、目がほとんど見えなくなっていました。ですが、事前に神様からの御声があり、近付いて来る足音を聞くと、すぐに変装したヤロブアムの妻であることを見抜きました。そして、次の様に告げました。1)息子アビヤは、ヤロブアムの妻が町に足を踏み入れる時死ぬ(12節)。2)ヤロブアムの家を断つ王がすぐにも立てられる(14節)。3)この後、北イスラエルの政権は、水辺に揺れる葦のように安定しない(15節)。4)先祖にお与えになった地からイスラエルを引き抜き、散らされる(15節)。
 3.御心に適っていた息子よりも大きかったヤロブアムの罪:アヒヤの預言通り、妻が町に入り、家の敷居をまたいだ時、息子のアビヤは死にました。ですが、この息子は、「ヤロブアムの家の中でイスラエルの神、主にいくらか良いとされるのはこの子だけだからである。」(13節)とあります。「いくらかでも良い」は、新改訳聖書第3版では、「御心に適っていたからです。」と訳されています。そこで、アビヤだけがヤロブアムの家族の中で墓に葬られました(18節)。
 なぜ、御心に適っていた息子が若くして病のために死んだのでしょうか?その理由はわかりません。ですが、息子の信仰以上に父ヤロブアムの罪の方が大きかったことは考えられます。彼の大きな罪は、何といっても神様を「後ろに捨て去った」ことです(9節)。唯一存在され、生きて働いておられる神様に背を向け、自らも偶像の神を拝み、イスラエルの民にも拝む様に仕向けたこと、これが最大の罪でした。それでもヤロブアムはこの罪から離れようとはせず、結局「ネバトの子ヤロブアムのすべての道を歩み」と記され、悪王の代表者に数えられることになりました。
 4.信仰と悔い改め:ヤロブアムの記事を教訓にするならば、次のことを聞き取れます。
 1)信仰によって=ヤロブアムの妻が変装していても預言者アヒヤに見抜かれたように、神様の前ではいくら外側を変えたり繕ったりしても通用しません。神様は、いつも私たちの内側をご覧になります。内側で、「目に見えるものによらず、信仰によって歩」もうとしているかどうか、そこが問われます。(Ⅱコリント5章7節)。
2)悔い改め=私たちもダビデのような信仰を願いたいものです(8節)。彼も大きな罪を犯しました。ですが、指摘された時、すぐに認めて悔い改め、神様から許されました。私たちには、イエス・キリストの十字架の血による罪の赦しの道が差し出されています。安心して、示されている罪は認めて悔い改め、神様の国の原則の方に生きる向きを変えましょう。どの様な罪でも赦され、新しい歩みを始められます。
 (参考聖書箇所:Ⅰサムエル16章7節、マタイ4章17節、Ⅱコリント5章7節)
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『御霊ではじめたのですから』 

2019年3月24日主の日礼拝メッセージ要約
聖書    ガラテヤ3章1~14節  
メッセージ   『御霊ではじめたのですから』   
メッセンジャー  田中文人牧師

 キリスト信仰者は、1)「霊」(御霊、聖霊)に導かれ、生かされており、2)旧約聖書の信仰の父アブラハムの子孫です。ですが、旧約時代というと、やはりモーセを通して神様から与えられた律法のことを思い出すのではないでしょうか?そこで、キリスト信仰者の歩みを長年続けていても、2)は、あまり意識していないのではないでしょうか?
 1.なお怒っているパウロ:3章に入っても、パウロは、まだ怒っていることが伝わって来ます(1、3節)。彼の怒りは、1)ガラテヤ地方のクリスチャンとキリスト教会を迷わし、違うところに誘い込んでいた偽教師たちに対して、2)人生を180度変えられ、罪の赦しと永遠の命の約束までいただいたにもかかわらず、偽教師たちに惑わされ、純粋なキリスト信仰から逸れてしまっていたガラテヤの信徒たちに対してです。「ああ、物分かりの悪いガラテヤの人たち」(1節)、「あなたがたは、それほど物分かりが悪く…」(3節)、この様に言われるならば、誰でも良い気はしません。ここにパウロの怒りが表わされています。同時に、彼とガラテヤの信徒たちとの間には、しっかりした信頼関係が出来ていたこと、何よりパウロが彼らに初めの信仰に立ち帰ってほしいと心から願っていた愛が伝わって来ます。
 2.アブラハムの信仰:ですがパウロは、その怒りを彼らに当てるのでなく、信仰の父アブラハムに与えられた祝福をガラテヤの人たち(ユダヤ人ではない異邦人)も受け継いでいることを、旧約聖書を何箇所も引用しながら説いています。アブラハムも、行ないによって神様に受け入れられたのではなく、与えられた祝福の契約をただ信じて義と認められたのです。「義」は、神様に「良し」と受け入れられること―神様の子どもに迎え入れられること―です。
 3.律法による救いはない:もしも私たちが救われるために律法を行なわなくてはならないとしたら、どうなるでしょうか?行なえない自分に気付かされ、落ち込んだり、罪悪感に苦しむことになります。仮に行なえたとしても、一時的な達成観はあるかも知れませんが、また次の達成観を求めて頑張らなくてはなりません。そこには、救いも平安もなく、結局、自己実現止まりであり、自己中心の人生でしかなくなります。それが「呪い」(11、13節他)と言えます。
 4.救いは「信じるだけ」:イエスさまは、この「呪い」を全部十字架の上で引き受けてくださいました。また、律法全部も実現されました。そこで、いまの私たちも、行ないによるのではなく、ただ、このイエスさまを「救い主」と信じる信仰によって、救いの恵みに与ることができます。救われるならば、聖霊が宿ってくださいます。聖霊の助けと導きによって完全な天を目指して進み続けることも出来ます。
 どこかで「…をしないと救われない…。」「まだ…が出来ていないから、それが行なえたら信じる…。」という思いはないでしょうか?神様は、ガラテヤの信徒たちと同じ異邦人である私たちも、アブラハムの子孫に招いてくださっています。感謝して、救い主を受け取りましょう。既にキリスト信仰の歩みを続けているクリスチャンも、ガラテヤの信徒たちの様に違う福音に惑わされることなく、「霊」によってはじめた信仰を「霊」によって仕上げるところを願い出ましょう。
 (参考聖書箇所:創世3章15節、ハバクク2章4節、ローマ10章9~10節)
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『預言者への警告』 

2019年3月17日 主の日礼拝メッセージ要約
聖書    列王記上13章11~34節  
メッセージ   『預言者への警告』   
メッセンジャー  田中文人牧師

 キリスト信仰者(クリスチャン)は、父なる神様(創造主)の御心に少しでも沿う歩みをしたいと願っています。御心に沿う歩みが、救い主イエス・キリストに従う、キリストの弟子の歩みです。ですが、この世には、神様の御声のように聞こえて、実はそうではないことも多くあります。
 1.不可解な出来事:今日の聖書箇所の記事は、理解に苦しむのではないでしょうか?北イスラエルの王ヤロブアムに神様からの警告を伝えた南ユダの預言者は、自らも神様から言われていたところに忠実に従いました。彼は、王からの誘いも断わり、北イスラエルでは、飲食をいっさいせず、来たときとは別の道を通って南に戻り始めました。
 ところが、北イスラエルにも老預言者がいました。南からの預言者のことを息子から聞くと、この老預言者は、すぐにろばで追いかけ、樫の木の下で休んでいた南からの預言者に追い着きました。そして、「一緒にわたしの家に来て、食事をなさいませんか」と誘いました(15節)。長い間、老預言者は、御声を聞いていなかったため、南からの預言者を通して御声を聞きたかったのでしょうか?ですがこの時も南からの預言者は、しっかり断わりました。
 ところが北の老預言者が、「わたしもあなたと同様、預言者です。御使いが主の言葉に従って、『あなたの家にその人を連れ戻し、パンを食べさせ、水を飲ませよ』とわたしに告げました。」(18節)と言うのを聞くと、誘いを受け入れ、一緒に引き返してしまいました。
 しかし、二人が老預言者の家で一緒にパンを食べ、水を飲んでいると、神様の御声が、老預言者にありました。彼は。ビックリしました。久しぶりに御声を直接聞いたことと、その内容が、南からの預言者が言っていた通りだったからです。ですが、やはり老預言者も預言者ですから、このことも南からの預言者に伝えました。
 南からの預言者の反応は書いてありませんが、おそらく、そのままを受け入れたのだと思われます。北の老預言者は彼のためにろばと鞍を用意し、送り出しました。しかし、南への途中、1匹の獅子と出会い、南からの預言者は、殺されてしまいました。不思議なことに、獅子は、この人だけを殺し、ろばを殺したり食べたりしていませんでした。通りかかった人がこのことを北の老預言者に話すと、彼はすぐにそこへ行き、南からの預言者の亡骸をろばに乗せて自分の町に戻り、丁寧に葬りました。
 2.欺きを見抜けなかった南の預言者:この老預言者は、預言者の一人であることは間違いありませんでしたが、御使いから南からの預言者をもてなすように告げられたというところは事実ではありませんでした。この点で、老預言者は南からの預言者に嘘を言い、欺きました(18節)。南からの預言者は、そこを見抜けず、悲惨な死をとげることになりました。ですが、欺いた老預言者は、「おとがめなし」でした。理解に苦しみますが、ここから聞き取りたいことは、南の預言者が御心に従い通せなかったところです。
 3.目を覚まして御心に従う歩みを:私たちも「御心」と思うようなことを聞くことがありますが、実は、違うこともあり得ます。ベレアの人たちの様に、聞いたことは、聖書に照らして確認するようにしましょう。そして何より、祈りの内に御心を常に確認しながら祝福の道を歩みましょう。
 (参考聖書箇所:コロサイ4章2~4節)
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