『新年の祭りⅡ = 悔い改めの断食』

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2011年12月18日
   「宣教」から

『新年の祭りⅡ
= 悔い改めの断食』

 聖書  レビ記
      23章26~44節
 宣教者 田中文人牧師



 前回の奇数週(12月4日)は、レビ記23章の後半からメッセージを聞き取りました。今日も、ほぼ同じ箇所です。ここには、イスラエルの民にとっての「新年」(第7の月)に神様が守る様に告げられた祭りについて記されています。今日は、大贖罪日(7月10日)と仮庵の祭り(7月15日からの一週間)の掟から、聞き取りましょう。

 1.苦行をして悔い改めた民
 今から3500~3800年前、荒野を旅していたイスラエルの民に神様は、第7の月を新年にする様、命じられました。そして、その月の10日は贖罪日であり、一年間の罪を大祭司が神様に許してもらう礼拝をする日であることを告げられました。大祭司は、年に一度、この日に幕屋の一番奥の部屋(至聖所)に入り、定められた動物を神様に献げました(参照レビ16章)。
 このとき、一般の民も悔い改めをしました。それが、第7の月の10日に「苦行」(新共同訳)をすることでした。ユダヤの暦で一日は、夕方から始まります。ですから、私たちの一日では、9日の夕方から10日の夕方までの一日に当たります。「苦行」は、断食のことだと思われます。病気や妊娠中の女性、お年寄りを除いてイスラエルの民は、断食をして罪を悔い改めました。
 現代の私たちには、一度だけ、完全な献げ物になってくださったイエスさまがおられます。イエスさまは、私たちの罪全部を十字架に付けてくださいました。その時流された貴い血で全部の罪を赦してくださいました。ですから、私たちは年に一度罪を許してもらうために断食する必要はありません。イエスさまは、「この私の罪のためにも十字架で死んでくださった」ことを受け入れ、罪を告白し、それからの人生は、救い主イエスさまを信じて、神様が喜ばれる歩みをする決心をするだけで誰でも救われます。ですから、年に一度の断食は必要ありませんが、日々、気付かされた罪を告白することは必要です。毎日毎日古い自分に死に、新しい自分に生かされる人生、それが救い主イエス・キリストに似る者へとつくり変えられていくクリスチャンです。

 2.仮小屋に住んだ民
 新年の15日から七日間は、「仮庵の祭り」の期間です。この祭りは、秋の収穫を神様に感謝する意味もありました。今日聞き取りたいことは、この七日間、民が、木の枝等でつくった粗末な小屋で生活したことです。これは、40年間、荒野で天幕生活をしたことを思い出すためでした。約束の地カナンに定住する様になった後、先祖が不便な生活をしたことを思い出す意味でしたが、何よりも、神様が必要はすべて満たしてくださるお方であることを体験し、感謝するためでした(43節)。事実、イスラエルの民は、荒野の旅の間、食料も水も、その他の物でも、困ることはありませんでした(参照、申命8;4他)。
 ですが、カナンの地で恵まれた生活をするうちに、イスラエルの民といえども、だんだんと便利さに慣れ、「この生活が当たり前」と思う様になります。そこから、神様を忘れ、自分や他者、物や人の知恵に頼って生きる様になっていきます。その様なことがない様に、年に一度一週間、不便な生活をすることを神様は命じられました。
 私たちも、いまの便利な生活に慣れ切っているところはないでしょうか?「この快適な生活は、私が稼いだお金によって出来ている…。」と思っているところはないでしょうか?少しでもいつもと違う生活をしなくてはならなくなったとき、すぐに不平を言うことはないでしょうか?いまの私たちが、年に一度仮小屋に住んでみる必要はないでしょう。ですが、神様が、生活のすべてを満たしてくださっているところに目を向け、感謝することは必要です。どの様な状況に置かれたとしても、神様は本当に必要なことはすべて満たしてくださいます。
 どの様な状況・環境の中でも、神様からの恵みを数えて感謝すること、これが、最も祝福されるクリスチャン人生です。今週もその様な日々を精一杯歩み、クリスマスイブ礼拝と次週主の日のクリスマス礼拝式に向かいましょう。

(参考聖書箇所: 申命記8;4、レビ記16章、詩編103編、エペソ人への手紙4;30)

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