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有明キリスト教会ブログ--今週の聖書の言葉
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日本バプテスト連盟 有明キリスト教会 主日礼拝「宣教」要約
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『祈りながら愛の業による改革をしたネヘミヤ』

2017/03/19 12:00
2017年3月19日
主の日礼拝式メッセージ要約
聖書   ネヘミヤ記第13章1〜31節
メッセージ 『祈りながら愛の業による改革をしたネヘミヤ』
メッセンジャー 田中文人牧師

 キリストを信じて十字架の血による罪の赦しをいただいたときは、みな感謝と喜びで満たされています。イエスさまが復活されたことを信じて永遠の命の約束にまであずかるのですから、死にさえも解決が与えられ、完全な天を望み見ながら希望のうちに新しい人生を進み始められます。この世の基準ではなく、天国の原則=神様を第一とし、自分を愛する様に隣人を愛する生活へと生き方が変えられます。
 ところが、クリスチャン生活に慣れて来ると、次第に救われる前の、自分と生活に戻ることがあります。そのような逆戻りにならず、成長しながら天を目指す歩を続けるには、どの様にしたらよいのでしょうか?

 1.もとに戻っていたイスラエルの民:城壁の奉献礼拝も終わり、ネヘミヤは、一旦ペルシアに帰りました。その後どれくらい後かはわかりませんが、再びネヘミヤは、エルサレムにやって来ました。すると、あれ程自ら悔い改めて内側の信仰を回復していた民は、以前の生活に戻ってしまっていたのです。

 2.ネヘミヤの改革(4〜29節):1)城壁修復工事を妨害したトビヤが祭司しか入れない神殿の部屋をネヘミヤの留守中に占領していました。そこで、彼と荷物を追い出し、祭具を収め直しました。 2)十分の一の献げ物が疎かにされていたため、祭司やレビ人たちがエルサレムの外で農作業等をして生計を立てていました。そこでネヘミヤは彼らを神殿に戻し、十分の一の献げ物を貯蔵庫に収めました。3)安息日に売り買いもしないという約束も破られていました。ネヘミヤは、安息日には商売人たちを徹底的に排除しました。 4)異教徒との結婚によって生まれた子どもたちがユダの言葉を話せなくなっていましたので、ネヘミヤは厳しく責め、その子たちを異教徒と結婚させないよう誓わせました。

 3.厳しさが伴う愛:この様に見て来ると、ネヘミヤはかなり厳しい改革をしたことがわかります。この改革は、「すべての異民族から彼らを清め、祭司とレビ人に守るべき務めを定め、それぞれその任務に就かせ」た(30節)とまとめられます。ですが、ただの厳しさではなく、神様の方からユダの民を愛してくださっている、その愛による、愛に答える改革だったといえます。

 4.何より祈っていたネヘミヤ:上記の様な愛による改革が断行できたのは、ネヘミヤが神様との交わりを常に保っていたからです(14節他)。
 神様は、いまの私たちも主の方から愛してくださっています。その極みが、イエス・キリストの十字架上での死、貴い血による罪の赦しです。御ひとり子を一端死に引き渡される程の愛です。ですから、そこには厳しさが伴います。イエスさまも神殿が強盗の巣になっていたことに対しては、厳しく宮清めをされました。受難節を過ごしているこの時期、この主の愛の大きさをしっかり受け止めましょう。聖霊の助けと励ましをいただきながら、主の愛に答える一週間に遣わされましょう。

 (参考聖書箇所:民数記22〜25章、申命記23章3〜5節、Tペトロ1章15〜25節)
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『正義の訴えを貫いたパウロ』

2017/03/12 12:00
2017年3月12日主の日礼拝式メッセージ要約

聖書    使徒言行録(使徒の働き)第25章1〜12節
メッセージ  『正義の訴えを貫いたパウロ』
メッセンジャー  田中文人牧師

 1.職務に忠実だった総督フェストゥス:パウロがカイサリアで留置され二年が過ぎたとき、フェリクスに替ってフェストゥスが総督に着任しました。前任者と異なり彼は、職務を誠実に果そうとする人物でした。そのことが、着任後三日経った時、エルサレムを訪れたことにも現わされています。彼はエルサレムで、ユダヤ教の指導者たちからパウロについていろいろな訴えを聞き、エルサレムでもう一度裁判を開くことと、そのためにパウロを連れて来てほしいという要求を受けました。彼らは二年経ってもなおパウロを暗殺する陰謀を諦めていなかったのです。ですがフェストゥスは、パウロがカイサリアで監禁されていること、自分も間もなくカイサリアに戻ることを理由に、パウロについて不都合があるのであれば、有力者たちがカイサリアまで自分と一緒に来て告発するようにと話しました。このフェストゥスの忠実さも用いられ、パウロは守られたと言えます。

 2.フェストゥスによる裁判:カイサリアに帰るとフェストゥスは、さっそく翌日、裁判を開き、パウロを呼び出しました。エルサレムからやって来たユダヤ人たちは、いろいろと訴えましたが、立証することは出来ませんでした。パウロはここでも、律法に対しても、神殿に対しても、そしてローマ皇帝に対しても何も罪を犯してはいないことを弁明しました。ここまでであれば、二年前と同じように、裁判は行き詰ってしまうことになります。
 ところが、この後、事態は動きました。職務に忠実だったフェストゥスにもやはりローマの支配地域であるエルサレムのユダヤ人たちから気に入られたいという思いがありました。そこで彼はパウロにエルサレムで裁判を受けたいと思うかどうか尋ねました。

 3.正義を貫いたパウロ:この質問にパウロは、はっきりと自分はローマ皇帝の法廷で裁判を受けているのだから、…上訴する、と正義に立った意思を述べました。パウロはれっきとしたローマ市民でした。ローマ市民から皇帝の前での裁判の申し出があったとき総督は、それを実現していかなくてはなりません。フェストゥスは陪審員と相談したうえでパウロに「皇帝のもとに出頭するように」に答えました。このことによって、パウロのローマ行きが現実のものになっていったのです。

 4.タイミングを逃さないために:パウロは実にみごとに時を捕え、自分に与えられていたローマ市民の特権を用いました。そして、主から告げられていたローマへ行ってキリストを伝えるヴィジョンに大きく前進していきました。時を逃さず、特権を正しく用いることも、正義に生きることといえます。
 私たちも主から与えられているヴィジョンの実現に向かって、タイミングよく特権や賜物を用いることを願い出ましょう。そのためには、その時を祈っている必要があります。祈っているならば、主は必ず「時」を教えてくださいます。今週も正義の道を歩み通された救い主イエス・キリストに手を引かれながら、その御後に従ってまいりましょう。

 (参考聖書箇所:創世18章19節、エフェソ6章10〜20節、Uテモテ6章11〜12節)
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『大いなる喜びの城壁奉献礼拝』

2017/03/05 12:00
2017年3月5日 主の日礼拝式メッセージ要約

聖書   ネヘミヤ記第12章27〜47節 
メッセージ 『大いなる喜びの城壁奉献礼拝』
メッセンジャー 田中文人牧師

 「キリスト教会の礼拝」と聞くとき、どの様なことを思うでしょうか?厳か、静か、畏れかしこむ等、緊張感のある事柄を思い浮べるのではないでしょうか?
 今日の聖書箇所には、エルサレムの城壁修復工事を終えた民が、感謝の内に、喜びの城壁奉献礼拝をしたことが書いてあります。ここから、私たちも喜びに満ち溢れる礼拝を献げてよいことがわかります。

 1.身を清めた奉仕者たち(27〜30節):礼拝の前に、エルサレム周辺に住んでいた詠唱者(聖歌隊)の奉仕者たちが、呼び集められました。そして、身を清めて礼拝奉仕の備えをしました。奉仕者だけでなく、他の民と城壁、城門も清めました。
 私たちも喜びの礼拝を献げるためには、身を清めることが大切です。示された罪は日々悔い改め、十字架の血による赦しをいただきましょう。内側が聖霊で満たされることが、何よりの清めであり、礼拝への備えです。

 2.聖歌隊による礼拝のリード(31〜43節):詠唱者たちによって、ふたつの聖歌隊が編成されました。これら二隊は、同じ場所から出発し、一隊は反時計回りに、もう一隊は時計回りに楽器と歌で讃美しながら神殿に向け、城壁の上を歩いていきました。エズラとネヘミヤは、それぞれの聖歌隊に加わりましたが、彼らではなく、詠唱者たちが先頭に立って進みました。そして、神殿に着くと、大いなる生贄を献げ、さらに喜びに満たされた礼拝を献げました。詠唱者たちは、この礼拝のリードにも当たりました。
 私たちの礼拝も、聖歌隊が導くならば、いま以上に喜びに満たされるのではないでしょうか?有明教会にはまだ聖歌隊はありません。いつか、聖歌隊が編成され、毎週の礼拝をリードするところを望み見、祈りはじめたいものです。

 3.十分の一を喜んで献げた民(44〜47節):喜びの奉献礼拝を献げた民は、祭司たちが神殿奉仕に専念出来るよう、倉に初物の収穫物等の十分の一を持って来ました。そして、祭司たちがこれらの献げ物で養われ、奉仕することを喜びました。祭司たちも、それらの献げ物の十分の一を献げました。その他、門の警備にも民は喜んで立つようになりました。
 いまの私たちにとっても十分の一献金は、決して小さな額ではありません。本気で献げようとするならば、犠牲が伴います。ですが、一ヶ月導かれたことを感謝し、喜んで神様から与えられたものの中からお返しする思いで献げるならば、主は大きく祝福してくださいます(マルコ10章の2レプトン銅貨を献げたやもめの記事も参照)。生活の必要も神様は満たしてくださいます。そこに信頼して、大胆に献げましょう。
 今週も、喜びの礼拝からそれぞれの一週間の生活に遣わされましょう。

 (参考聖書箇所:詩編51編12節、マルコ12章41〜44節、ヨハネ4章、フィリピ4章4〜7節)
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『忍耐しながら伝道したパウロ』

2017/02/26 12:00
2017年2月26日主の日礼拝式メッセージ要約
聖書   使徒言行録第24章1〜27節 
メッセージ 『忍耐しながら伝道したパウロ』
メッセンジャー 田中文人牧師

 計画(ヴィジョン)を実現していくとき、あるところで前に進まなくなることがあります。今日のパウロもその様な中にありました。

1.フェリクスの前で訴えられたパウロ:大祭司アナニヤは、長老数名と弁護士テルティロを連れてエルサレムからカイサリアに来ました。そして、総督フェリクスにパウロについて1)疫病(ペスト)の様な男であること、2)ナザレ人(イエス・キリスト)の分派の主謀者であること、3)神殿を汚そうとしたことを訴え出ました。

2.パウロの弁明:総督フェリクスから発言を促されたパウロは、喜んで(10節)上記3点について弁明をはじめました。1)については、エルサレムに帰って来て一週間しか経たないので、陰謀を企て、それを疫病のように広げることなど不可能であること。2)については、確かに自分は「ナザレ人の分派」と呼ばれているイエス・キリストを信じる者だが、旧約聖書全部を信じており、キリストの復活も信じ、自らの復活にも望みを抱いていること。3)については、神殿を汚すどころか何の問題も起きていなかったこと、自分を捕まえた者たちがここに来てそのことを話すべきであると述べました。

3.フェリクスの判断:これらを聞いた総督フェリクスは、千人隊長リシアが来るまで判決を先延ばしにしました(22節)。そしてパウロをそれまである程度の自由を与えたうえで留置しておくように命じました。フェリクスは、度々パウロを呼び出し、妻のドルシラと一緒に話しを聞きました。パウロからお金をもらう下心もあったからです。決局その様な日数は二年にも及びました。

4.パウロがしたこと:この様にパウロはカイサリアで2年間も足留めされることになりました。初めから「2年間」と決まっていたわけではありませんでしたから、パウロにとっては、いつまで続くのかわからない中で不安や心配もしながら過ごした年数だったはずです。
 その間にパウロがしたことが、フェリクスとドルシラ夫婦に福音を伝えることでした(24〜25節)。特に彼らは旧約聖書に反する結婚をしていましたからパウロは呼び出される度に、正義と節制について大胆に語りました。もちろん、その様な罪もキリストの十字架の血によって赦されること、復活を信じるならば、永遠の命の約束にもあずかれること等、キリストの愛についても語り続けたはずです。ですが、結局彼らは救いの恵みにを受け取る決心はしませんでした。それでもパウロにとってこの2年間は、忍耐を養うために大きく役立ちました。

5.私たちの信仰:私たちもヴィジョンがうまく進まなくなったときすることは、委ねられている働きに忠実に励むことです。神様は、ご計画に従って召された者たちを見捨てることはされません。「万事を益」にしてくださいます。そこに信頼しながら、忍耐強く主の栄光を現わす歩みに今週も遣わされましょう。

 (参考聖書箇所:ローマ5章1〜5節)
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『城壁の奉献に当って』

2017/02/19 20:00
2017年2月19日
主の日礼拝式メッセージ要約
聖書     ネヘミヤ記第12章1〜26節
メッセージ    『城壁の奉献に当って』
メッセンジャー  田中文人牧師

 有明キリスト教会では、会員ひとりひとりが賜物を献げ、礼拝式他の奉仕に仕えています。キリスト教会は、キリストの体に喩えられます。頭は救い主キリスト、教会員はキリストの体につながる各部分です。
 ところで、教会の奉仕に立つ時、いまの環境や状況が改善される必要はあるでしょうか?あるいは、直面している課題の解決は必要でしょうか?また、個人の賜物は、どれだけレベルが上がり、成長すれば、奉仕に立ってよいのでしょうか?
 1.城壁奉献式の奉仕に当たるレビ人祭司たちの名簿:ネヘミヤ記の12章の前半26節までには、エルサレムの城壁修復工事が終わった後、奉献礼拝に当たるレビ人と祭司たちのリストが記されています。日本語の聖書で読むと、カタカナが並んでいるだけのように感じるかも知れません。ですが、次の様に三区分された整った神殿奉仕者の名簿になっています。
 1〜11節が、この時よりも約百年前、バビロン捕囚から解放され、エルサレムに帰って来た時の祭司とレビ人のリストで、シェアルティエルの子ゼルバベルとイエシュア以下、計22人でした。12〜21節が、その後の時代、ヨヤキムが大祭司だった時代の祭司たち、計22人です。そして22〜26節が、エルヤシブが大祭司だった時代のリストで、城壁修復工事の頃の祭司とレビ人たちのリストです。神殿で礼拝の奉仕に当たる部族は、アロンの家系、レビ人と定められていましたから、先祖をしっかり辿る必要があったといえます。
 2.欠けていた祭司の数:上記のリストは、歴代誌下(U)24章にもあります。ところが、歴代誌では24人挙げられているところ、今日のリストでは、22人です。捕囚中にわからなくなった家族があったのかも知れません。エルサレムに帰還した後、十分な人口調査が出来なかったことも考えられます。
  ここで聞き取りたいことは、この時のレビの家系が先祖の時代よりも数の点からも、また信仰の面からも十分ではなかったことです。それでも彼らはその不十分なままで感謝と喜びの内に、27節以後にある通り、主の奉仕に仕えていきました。
 3.私たちの奉仕:私たちが奉仕に立っていくときも、状況が良くなることや課題が解決することは、必ずしも必要ありません。大原則は、神様、イエスさまからその働きに仕えるように告げられているかどうかです。賜物も同様です。技術面に不十分さを感じているとしても、主の前に謙って賜物を差し出すならば、主ご自身が欠けを補ってくださり、用いてくださいます。もちろん、そこに甘んじて怠慢になってはいけません。より良い献げ物となるよう常に訓練は必要です。
 新年度を臨み見、備える時期になりました。ひとりひとりに主はどの様な教会の奉仕に立つよう示しておられるでしょうか?聖書のみことばと祈りによって主の招きを聞き取りましょう。その招きを確信したならば、いまの状況の中からその奉仕に立ちましょう。そこに祝福があります。

 (参考聖書箇所:T歴代24章、Tコリント12章19〜28節)
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『不思議な方法でカイザリアに運ばれたパウロ』

2017/02/12 12:00
2017年2月12日
主の日礼拝式メッセージ要約
聖書    使徒言行録第23章12〜35節
メッセージ   『不思議な方法でカイザリアに運ばれたパウロ』
メッセンジャー 田中文人牧師

 計画(ヴィジョン)が実現に向かう時、思いもよらない方法で進むことがあります。その点で、私たちは、思いも頭も柔軟にしておく必要があるといえます。
 パウロもローマまで行って証しをするというヴィジョンをイエスさまから告げられていました。今日の聖書箇所には、まずエルサレムから約100q離れたカイザリアまで行った時のことが記されています。ですが、その方法は、パウロ自身、思いもよらない運ばれ方でした。神様は、様々な人々を用いて着実にローマに向けてエルサレムを脱出させてくださったのです。

 1.暗殺計画をパウロに知らせた甥:おそらくサドカイ派と思われる人々が、翌日もユダヤの最高議会を招集し、そこにパウロが連れて来られる途中で殺してしまう暗殺計画を立てました。そのうえ彼らは、パウロを殺すまでは飲み食いをしないという誓いまで立てたのです。この企みに40名もが加わりました。
 ところが、この陰謀をパウロの妹の息子(甥)が聞きつけ、兵営に留置されていたパウロに伝えました。パウロは百人隊長に、甥を千人隊長のところに連れて行ってほしいと頼みました。この様にして、パウロの暗殺計画は、アッという間に千人隊長まで伝わりました。

 2.千人隊長の計らい:この陰謀を知った千人隊長は、その夜のうちに歩兵二百名、騎兵七十名、補助(槍)兵二百名を準備するように百人隊長に命令しました。この様にしてパウロは、過剰とも思える数の兵隊たちによって、その夜9時にエルサレムを出発し、カイザリヤに向け護送されていきました。

 3.千人隊長の手紙:千人隊長のクラウディウス・リシアは、カイザリヤに駐屯していたローマ総督フェリクスに手紙を書き、パウロのあつかいを委ねました。多少クラウディウス・リシアに都合のよいように事実と異なる内容もありますが、パウロがローマ法に反することではなく、ユダヤ人の信仰に関することで訴えられていることについては、しっかり書かれていました。この手紙を読んだ総督は、訴えている者たちがカイザリヤに到着するまでパウロをヘロデの官邸に留置することにしました。
 これらすべてのことの背後で、主の働きがあったことが読み取れます。

 4.私たちの計画実行:私たちの計画も、第1に、神様から告げられていることをしっかり確認いたしましょう。第2に、その計画が間違いなく主からのものであることを確認したならば、うまく進まない時があっても、「必ずなる」と信頼し続けましょう。第3に、計画実現に向けて具体的な方法は、私たちが立てたやり方に固執するのでなく、むしろ主が働かれるところに用いられることを願いましょう。

 (参考聖書箇所:イザヤ55章11〜13節)
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『エルサレムの民に祝福された人たち』

2017/02/05 12:00
2017年2月5日主の日礼拝式メッセージ要約
聖書    ネヘミヤ記第11章1〜36節
メッセージ  『エルサレムの民に祝福された人たち』
メッセンジャー  田中文人牧師

 良い条件と悪い方、選べるとするならば、どちらを選び取るでしょうか?わざわざ条件が悪い方を選択する人はなかなかいないかも知れません。ですが、聖書の原則によると、人の目や知恵では、どこから見ても悪いとしか思えない方に祝福が備えられていることもあります。大切なことは、神様が行く様に示しておられる方を選び取ることです。

 1.城壁修復終了直後のエルサレム:今から二千四百四十数年前のエルサレムには、人はあまり住んでいませんでした。神殿の再建も城壁の修復も民の内側の信仰回復も終わりましたが、肝腎のエルサレムに住む人が少数では、都という点でも神殿がある町という点でも相応しくありません。そこでネヘミヤは、当時御心を知るために用いられていたくじによって、移り住んで来る民を決めました。ですが、くじで神様からエルサレムに引っ越すように示されても、その通りには出来ない人たちもいたようです。それは、エルサレムでは、2.にある様な生活を覚悟しなくてはならなかったからです。ところが、その様な悪条件にもかかわらず、自ら進んで移住を申し出る人たちもあらわれました。

 2.エルサレムの生活状況:1)ユダヤ人以外の人たちが、エルサレムに住んでいる人たちに宗教的な理由から偏見を持っていたため、物の売り買いも思う様に出来ない状況でした。 2)エルサレムに家を建て直し、仕事もエルサレムでみつけなくてはなりませんでした。 3)神殿が近くなるので、エルサレムの外に住んでいる時よりも、より信仰深い生活が求められました。(以上、『ディボーショナル聖書注解』より)
 進んで移住を希望した人たちは、家族と一緒にそれまでの生活すべてを変える覚悟を決めて、申し出たのです。この決断は、既にエルサレムに住んでいた民たちから喜ばれ、祝福されました。神様ご自身も大きく祝福されました。

 3.救い主イエス・キリストを望み見て:私たちも、どこから見ても「悪条件」としか思えない方に進むように示されることもあります。その時は、イエスさまを思い出しましょう。イエスさまは、神様のもとから罪のこの世に、私たち人と同じ姿で来てくださいました。全人類を救い、天に迎え入れてくださるために、十字架の上で死なれました。私たちの身代りに神様から一旦完全に引き離される最大の苦しみまで味わい尽されました。その御ひとり子を神様は、十字架から三日目に死者の中から復活させられ、最大の課題である死にさえも勝利されました。
 このイエスさまが、いまも私たちと共にいてくださいます。助け主(ぬし)、聖霊を遣わし励まし、力を与えてくださいます。そこに信頼し、条件の良し悪しではなく、神様が行く様に示しておられる道を選び取ることを願い出ましょう。そこに必ず祝福があります。
 「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」(マタイ26章39節)

 (参考聖書箇所:詩編92編6節、使徒21章14節、フィリピ2章1〜11節)
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『わたしたちも神殿をおろそかにしません』

2017/01/29 12:00
2017年1月29日主の日礼拝式メッセージ要約

聖書   ネヘミヤ記第10章1〜40節
メッセージ 『わたしたちも神殿をおろそかにしません』
メッセンジャー 田中文人牧師

 エルサレム神殿の再建も、城壁の修復も終わり、御言葉(モーセの律法)に立ち帰り、悔い改めた民は、日常生活面でも、御心に適う歩みをはじめ直す決断をしました。今日の31節までに、誓約書に捺印した人たちの名簿が記されています。

 1.具体的な生活(32〜40節):32節以下が、民が立ち帰る決断をした掟に適う生活です。 1)異邦の民つまり偶像を拝む人たちとは結婚しないこと。(31節) 2)安息日と安息年を守ること(32節)=毎週の安息日(当時は土曜)には、物を売りに来ても買わない、七年の一度の安息年には、畑も休ませ、借金も免除する。 3)神殿税を納め、その献金は礼拝のために用いる。(33〜34節) 4)動物の献げ物を焼くための薪の納入(35節) 5)初物の献げもの(36〜37節)=主を第一にし、感謝する献げもの。 6)祭司のための献げ物=献げものを受け取った祭司たちもその10分の1を献げました。
 城壁の修復のためにも民は献品し労力も献げましたから、さらにこの掟に従う生活をしていくには、大きな犠牲が伴ったと思います。それでも民は、決断し、誓約しました。

 2.私たちにとっての神殿:私たちにとっての神殿もひとつは、キリスト教会といえます。もうひとつが、キリストの十字架の血によって買い戻された私たち自身です(Tコリント6章19〜20節)。

 3.私たちの決断:二千数百年前のイスラエルの民は、この様な誓約をしましたが、結局、これも守ることは出来ませんでした。
 いまの私たちには、これらの律法全部を実現してくださったイエス・キリストが差し出されています。ですから、イエスさまを「私の救い主」と信じるだけで、誰でも救いの恵みにあずかり、律法全部を行ったと見なされ、神様に受け入れていただけます。救われるのは、行いによらず、ただ信じるだけです。ですが、だからといってそれからのクリスチャン生活も救われる前と同じでよいということにはなりません。罪の赦しと永遠の命の約束をいただいたならば、その感謝の思いから、少しでも天国に迎え入れられる者に相応しく神の民の歩みを願い出たいものです。
 この機会に私たちも、今日の聖書箇所に沿って自分の生活を見直してみましょう。基準は、この世と妥協せず、神様を第一にすること、同じ様に隣人を心から愛すること、そして主の栄光を現わす生活です。そこに祝福があります。

 (参考聖書箇所:ローマ12章1〜2節、Tコリント6章19〜20節、〃10章31節)
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『エルサレムでキリストを力強く証ししたパウロ』 

2017/01/22 12:00
2017年1月22日 主の日礼拝式メッセージ要約
聖書  使徒言行録(使徒の働き)第22章30節〜23章11節
メッセージ 『エルサレムでキリストを力強く証ししたパウロ』
メッセンジャー  田中文人牧師

 人前で説明を求められたり、申しひらきをしなくてはならない状況に立たされたりする時、私たちは、何を基準に語るでしょうか?
 1.議会の主導権を取ったパウロ:なぜパウロがユダヤ人たちから訴えられているのかを知るために開かれたユダヤの最高議会で、まずパウロは、自分は、イエス・キリストと出会い、救いの恵みにあずかってから「今に至るまで、あくまでも良心に従って神の前で生きてきました。」(1節)と語り始めました。これは、主の前に、キリストと共に、聖霊の導きに従って歩んで来たという意味でしょう。これを聞いた大祭司アナニヤは、ユダヤの法律に反して、パウロの口を打つように命じました。そこでパウロは、このことに異議を唱え、「白く塗った壁よ…。」(3節)と、アナニヤを批判しました。最高議会でユダヤの法律に則らないような者が大祭司とはとても思えない、という思いが表わされている発言です。
 これに対して近くに立っていた者たちは、「神の大祭司をののしる気か。」(4節)とパウロの方を攻めました。そこでパウロは、「兄弟たち、その人が大祭司だとは知りませんでした。確かに『あなたの民の指導者を悪く言うな』と書かれています。」(5節)と旧約聖書の律法に沿って応じました。被告人であるはずのパウロの方が、議会をリードしている様子が読み取れます。

 2.賢く知恵を用いたパウロ:パウロのリードはまだ続きます。議員の一部が、ファリサイ派とサドカイ派であることを見てとったパウロは、自分もファリサイ派であること、復活に望みを抱いていることで裁判を受けていると発言しました(6節)。これを聞いた議場は、復活を信じていたファリサイ派と信じていなかったサドカイ派の議員たちの間で大論争が起き、分裂状態に陥りました。パウロの身に危険が及びそうになったため、ローマの役人たちは、彼を兵営に連れていき、彼の身は守られました。

 3.議会の主導権を握り、知恵を用いることが出来た理由:この様にパウロが議会を常に主導し、うまく知恵も用いていったのは、彼がローマまで行き、キリストの福音を伝える使命をイエスさまから与えられていたからといえます。もしもこの最高議会で決定が出されてしまうならば、ローマ行きが実現しなくなってしまうことが十分予想されました。そこでパウロはこのとき神様から、議会が決定を出さないように知恵が与えられ、それをうまく用いたと言えます。「会堂や役人、権力者のところに連れて行かれたときは、何をどう言い訳しようか、何を言おうかなどと心配してはならない。言うべきことは、聖霊がそのときに教えてくださる。」(ルカ12章11〜12節)の御言葉通りです。

 4.日頃から心がけたいこと:私たちも説明や申しひらきを求められた時、語る基準は、「主の前で、与えられている目的のために語る」ことです。そこに立って大胆に語るためには、日頃から主との交わりをしっかり持ち続けていることが大切です。主との交わりは、聖書を読み、祈る時ばかりではありません。日常、社会生活の中で「手の業をする時も神様の前で憩いながら…」(『いのちのことば1月号「全生活をディボーションに」より)今週も聖書につながり祈り、その他の時も主の前で憩う歩みを続けましょう。予期せぬ事態に直面した時も、主は語るべきことを教えてくださいます。
 (参考聖書箇所:出22章27節、ルカ11章11〜12節、ヨハネ17章3節)
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『安息への道』

2017/01/15 12:00
2017年1月15日主の日礼拝式メッセージ要約
聖書    ネヘミヤ記第9章1〜37節  
メッセージ 『安息への道』
メッセンジャー 田中文人牧師

 私たちは、しっかり「安息」を得ているでしょうか?「安息」とは、「心身をやすらかにし、静かに休むこと。」(三省堂 大辞林)です。そこでまず思いつくことが、体をゆったりと休めることでしょう。忙し過ぎる時は、疲れ切ってしまいますから、体力回復のためにも身体を休める必要があります。また心も休めて、「身心」の両方に安らぎを得ていくことになります。心の休息には、スポーツや趣味等、リフレッシュ出来ることが有益です。ですが、それだけで本当に「安息」が得られるでしょうか?

 1.半日礼拝した民(1〜5節):ネヘミヤ記9章には、仮庵の祭りを終えた二日後(ユダヤ歴の7月24日)にもう一度集まったときのことが書いてあります。民は、心から罪を告白して悔い改めました。そして、日中の四分の一の時間、律法の書の朗読を聞き、他の四分の一の時間は、悔い改めの祈りをしました。
 日中の四分の一の時間は、約三時間に当たります。いまの私たちは、三時間、聖書朗読をしたり聞いたり、礼拝すると聞くと、どう感じるでしょうか?今日の9章一章分(37節)でも、「長い」と感じないでしょうか?いまから二千数百年前、エルサレムの城壁の修復を終えた直後の民は、それ程御言葉に飢え渇いていたといえます。私たちもその日の聖書箇所が短く感じるくらい、「生まれたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳(聖書の御言葉)を慕い求め」ましょう(Tペトロ2章2節)。

 2.心から祈った民(6〜37節):民は、父なる神様が、アブラハムの時から、慈しみと哀れみをもって導き続けてくださったことを先祖の歴史を振り返りながら感謝しています。それに対して先祖たちは、神様に背いては立ち替える繰り返しであったことを告白しました。また、その同じ罪は、先祖だけのことでなく、自分たちの罪でもあることも認め悔い改めました。
 神様は私たちにも同じ様に慈しみと哀れみを注ぎ続けてくださっています。ですが、当時の民と同様、私たちもその主の愛に感謝しては背き、また立ち替える繰り返しではないでしょうか?私たちには、その様な罪を完全に赦してくださる救い主イエス・キリストによる赦しの道が差し出されています。イエスさまの十字架の血による赦しをいただくならば、誰でも、どこからでも神様との関係の回復が与えられます。人との関係にも回復の道が開かれます。そのうえ復活を信じるだけで、永遠の命の約束までいただけます。

 3.安息を得るために:本当の「安息」は、霊が神様、隣人との関係に回復が与えられるところから始まります。まずは、礼拝をライフサイクルの中心に据えましょう。礼拝が何よりの安息の時です。次に、毎日聖書につながり、神の国の原則を聞き取りましょう。今週も「あなたは正しく行動されました。」(33節)と祈りながら、主からの安息をいただき、主の栄光を現わす生活に遣わされましょう。

 (参考聖書箇所:フィリピ4章6〜7節)
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『賢く特権を用いたパウロ』

2017/01/08 12:00
2017年1月8日主の日(新年)礼拝式メッセージ要約
聖書    使徒言行録(使徒の働き)第22章17〜29節
メッセージ 『賢く特権を用いたパウロ』
メッセンジャー   田中文人牧師
 キリスト信仰者にとって、最大のヴィジョンであり目指すところは、完全な天国で安らぐことです。ですが、この世で生かされている間も、様々なヴィジョンが示されます。そのヴィジョン(目標)が人生の節目にもなるといえます。
 1.パウロに与えられていたヴィジョン:今日の聖書箇所には、パウロにとって同邦の民だったユダヤ人から捕えられ、ローマの役人に引き渡された時、パウロがユダヤ人たちに話したことが書いてあります。その中でパウロは、キリストと出会い、自分が迫害していたイエス・キリストが間違いのない救い主であることを思い知らされ、クリスチャンに回心しました。そこで今度は、同じユダヤ人たちにこの救い主を伝えることが使命だと感じ、伝えていました。その様な時エルサレムで祈っていると、イエスさまが再び出会ってくださり、すぐにエルサレムから出て行くように、出て行って、ユダヤ人ではなく、異邦人にキリストの福音を伝えるように、と告げられました。これが、パウロに与えられた主からのヴィジョンでした。
 私たちのヴィジョンも、自分の思いや希望に沿うことばかりとはかぎりません。パウロのように、思いもよらない働きを告げられることもあります。ですが、聖書によく照らし、祈っても、その様に示されるならば、それこそが、主からのヴィジョンと受けとめ、その実現に向けて一歩踏み出しましょう。
 2.ユダヤ人たちの反応:当時のユダヤ人たちにとって、イスラエルの民以外の異邦人が、キリストの福音を聞いて救いの恵みにあずかること等、全く受け入れられないことでした。そこで彼らは、パウロから異邦人伝道のヴィジョンを聞いた時、猛反発し、激怒したのです。
 私たちも、先入観に捕われていると、イエスさまからのヴィジョンを受け入れられないことがあり得ます。その様にならないために、いつも、心を柔らかくし、御言葉に聞くようにしましょう。人の意見を通して神様は御心を示されることもあります。人が言うことにも、心を柔らかくし、そこから主のヴィジョンを聞き取る様にしたいものです。
 3.パウロに与えられていた特権:ローマの役人たちは、ヘブル語やアラム語がよくわからなかったようです。そのためにパウロが同邦のユダヤ人たちに語った内容と、それを聞いたユダヤ人たちがなぜさらに激しく怒っているのか、理解出来ませんでした。そこでパウロを鞭で打って、そのわけを知ろうとしました。
 その時パウロが百人隊長に告げたことが、自分は、ローマの市民権を持っていることでした。ローマ市民を裁判にもかけずに鞭打つことは、違法であり、逆に役人の方がローマ帝国から罰を受けることになりかねません。そこで百人隊長は、上司の千人隊長に報告しました。千人隊長は、パウロが生まれながらのローマ市民であることを確認すると、恐れを感じ、パウロを縛っていた紐を解きました。当時の鞭打ちは過酷で、命を落すこともありました。ですから、パウロは実に良いタイミングでローマの市民権を用いたと言えます。
 私たちも、主から与えられているヴィジョン実現のためであるならば、パウロの様に、与えられている特権や賜物を時に適って用いることが大切です。その時や方法も、よく祈り、聖書に聞く毎日を続ける中で、示されていきます。今年もまずは主からのヴィジョンを願いましょう。そして、与えられたヴィジョンに向かい、特権や賜物を十分に用いましょう。
 (参考聖書箇所:箴言29章18節)
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『神に喜ばれるように仕える一年を』

2017/01/01 12:00
2017年1月1日主の日(新年)礼拝式メッセージ要約
聖書    ヘブライの信徒への手紙第12章1〜29節
メッセージ  『神に喜ばれるように仕える一年を』
メッセンジャー  田中文人牧師

 1.年頭に当たって: 新年、おめでとうございます。この一年、どの様な希望を抱いて、いま礼拝しておられるでしょうか?昨年は、熊本震災はじめ、国内外で様々な災害もありました。政局でも、平和とは逆の方にどんどん進んで行ったとしか思えない一年でした。外国では、あちこちでテロも起きました。その様な中で迎えた2017年、何から目を離さずに歩むことを願えば、一歩一歩着実に天へ向かえるのでしょうか?
 2.キリストから目を離さずに: 11章でヘブル書の記者は、旧約時代の信仰の大先輩たちの名を記してきました。私たちもそれらの信仰者に囲まれているのですから、身軽になって、定められている競走を忍耐強く走り抜くようにと勧められています(1節)。その時、何といっても、信仰の創始者であり完成者である救い主イエス・キリストから目を離さないことが大切です。
 人生の走路には、様々な労苦もあります。疲れを感じることもあります。その時は、天に入れていただく時、より相応しくしていただくために、霊の父(神様)が鍛錬してくださっていると受け止めましょう。そして、最大の苦しみを忍耐してくださったイエスさまを思うならば、私たちにも耐える力が与えられます。
 3.聖なる生活を願って: では、具体的に、毎日願い、目指すことは何でしょうか? それが、「聖なる生活」(14節)です。キリスト信仰者は、罪のこの世から救い出され、聖なる神様に受け入れていただいています。感謝のうちに、次のことを目指したいものです。
 1)主の日の礼拝を第一に=聖なる神様を第一にすることとは、何といっても礼拝第一の生活を目指すことです。今年も、主の日の礼拝出席を生活の中心に据えましょう。どうしても難しい時は、様々なことで補いましょう。礼拝第一の生活が、神様を全身全霊で愛することになります。
 2)倫理道徳面=キリスト信仰者は、聖書の価値観で生かされています。この世では「当たり前」とされていることでも神様が喜ばれないことが多くあります。隣人を愛することを基準にし、特に、倫理道徳面では、身を正したいものです。それが、良き証しにもなります。
 3)偶像から離れる=「これだけは、手離せません…。」というものや思いがあるでしょうか?もしも、「手離しなさい…。」と神様から告げられた時に手離さず、握りしめたままでいるならば、それも「偶像」です。神様は、私たちに出来ないことは要求されません。聖霊なる神様の励ましと助けを必ず送って共に歩んでくださいます。そこに信頼して、気付かされている偶像からは離れることを願い出ましょう。(Tペトロ4章3節以下、参照)

 今年は、マルティン・ルターの宗教改革から500年目です。私たちも、例年に増して、聖書に立ち帰る一年になるよう、主に期待しましょう。

 (参考聖書箇所:Tペトロ4章3〜10節)
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『救い主イエス・キリストの愛』

2016/12/25 21:43
2016年12月25日主の日礼拝式メッセージ要約
聖書    使徒言行録(使徒の働き)第21章39〜22章16節
メッセージ 『救い主イエス・キリストの愛』
メッセンジャー   田中文人牧師

 クリスマスおめでとうございます。クリスマスは、イエス・キリストの誕生を祝う日です。「クリスマス」は、クリスト・マス(ミサ)=救い主を礼拝するという意味です。霊なる神様の助けと導きを得ながら、父なる神様、救い主イエス・キリストを礼拝することが、理に適ったクリスマスのお祝いです。

 1.パウロの証し:今日の聖書箇所には、エルサレム神殿で同邦のユダヤ教徒たちに捕えられ、ローマの役人に引き渡されたパウロが、イエス・キリストを大胆に証ししたことが書いてあります。彼は、要塞に連れて行かれようとした時、自分を捕えた人たちに話しをさせてほしいと申し出ました。
 その申し出が役人たちに認められ、まずパウロが語ったことは、自らも彼らと同じ生粋のユダヤ人であること、以前は、自分もキリストを信じている人たちを迫害していたことです。最初の殉教者ステパノの死にもパウロは立ち合い、石を投げつける許可まで出したことも話しました。
 その様なパウロに復活されたイエス・キリストが、出会ってくださいました。その時も彼は、キリスト信仰者を迫害するためにダマスコに向かっている途中でした。彼は突然光に照らされ地面に倒れました。そして、「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」と語りかけられる御声を聞いたのです。この時ようやくパウロは、それまで自分が迫害していたキリスト信仰者たちが信じていたイエスさまが、本当の救い主であられること、事実復活して生きて働いておられることを思い知らされました。
 そして、そのイエスさまから今度は、パウロが選ばれ、アナニヤを通して、罪を悔い改め、バプテスマを受けてキリスト信仰者になるように告げられたのです。そのうえ、これからは、救い主を伝える働きに遣わされるというイエスさまのご計画まで知らされました。

 2.私たちも選んで遣わされる主:自分を迫害していた者を選んで、遣わす人が、どこの世にいるでしょうか…?しかも、イエスさまは、迫害する人のためにも十字架で死んでくださいました。ここに、キリスト信仰の「愛」が現わされています。
 私たちもパウロ程ではないにしても、イエスさまのことを知ろうとしなかったり、神様のみ業ではなく、自分の智恵と力で人生を切り開き、生きていると思っているところがあるのではないでしょうか?それらも、キリストを無視し、神様に背を向ける、的外れ(罪)です。
 その様な私たちにもイエスさまは聖書のみ言葉を通して語りかけ、イエスさまを「救い主」と信じて主と共に歩む人生に招き続けてくださっています。主からの招きを聞き取ったならば、私たちも、いまのままで信仰の手を出して、救い主を受け取りましょう。キリストを受け取る時、聖霊によって魂はつくりかえられ、新しい人生が始まります。そして、日々キリストに似るところに近付けられ、自分中心ではなく、主の栄光を現わす人生に立ててくださいます。主の愛を感謝するクリスマスの一日を過ごしましょう。

 (参考聖書箇所:ルカ1章34節、Tヨハネ4章9〜10節)
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『魂の回復U = 御言葉を調べて実行した民』

2016/12/18 12:00
2016年12月18日主の日礼拝式メッセージ要約
聖書   ネヘミヤ記第8章13〜18節
メッセージ 『魂の回復U = 御言葉を調べて実行した民』
メッセンジャー 田中文人牧師

 城壁の修復も終わり、町の安全も守られるようになりましたが、なお民は幸福ではありませんでした。礼拝がおろそかにされ、聖書(神の国)の原則に沿う日常生活から離れていたままだったからです。ですが、ユダヤの暦で第7の月(いまのカレンダーでは10月頃)の第一日に、イスラエルの民は、エズラのもとに自発的に集まり、律法の書の朗読を願い出ました。そこから魂の回復が与えられていきました(8章1〜12節)。今日の箇所には、その翌日のことが書いてあります。

 1.御言葉を深く悟ろうとした民: すべての民の家長たちは、エズラのところにもう一度集まり、律法の書(創世記〜申命記)の意味を深く悟ろうとしました。「悟る」は、「調べる」とも訳されています(新改訳)。
 私たちも聖書のひとつひとつの聖句につながること自体によって、霊で神様との交わりが与えられます。ですが、聖句の意味をしっかり知ることにより、神様、イエスさま、聖霊なる神様のご性質を深く知らされます。そのためには、その聖書箇所の意味をよく調べることが大切です。ベレアの人たちも、パウロが語るメッセージが聖書(旧約)通りかどうか、よく調べました。その結果、多くの人たちが救い主を信じる信仰にあずかりました(使徒17章11〜12節、参照)。

 2.御言葉を行なった民: 律法の書をよく調べた民は、仮庵の祭りをするよう、神様が命じておられることを悟りました。そこで、その通りに枝を集めて仮の小屋をつくり、一週間、そこに住み、実際に野宿同然の生活をやってみたのです。ただ、先祖がやっていたことを再現しただけではありませんでした。城壁が完成したこと、そのため仮庵に泊まっても安全が守られることを実感し、主の大きな恵みを心から感謝したのです。
 私たちも、御言葉を調べてその意味を悟ったならば、その聖句をやってみることが大切です。御言葉を実践してみることによって、自分勝手に生きていた時とは全く違う、主の恵みと聖霊の守りを体験出来ます。

 3.喜びに満たされた民: 仮庵に住んだ民は、喜びに満たされ、祝いました。
 私たちは、「聖書から聞き取った意味に沿って生きるように」と聞くと窮屈に思うかも知れません。ですが、それは逆です。天国の原則に沿う歩みをしてみるのですから、最も安全で、祝福され、喜びに満たされます。
 救いは、御言葉を実行することによっては得られません。ただイエス・キリストを「救い主」と信じるだけで与えられます。キリストを信じるだけで律法も行なったことと見なしていただけます。ですが、そのキリストを信じ、信頼して新しい人生をはじめたのですから、キリストが歩まれたように生きたいと願い出たいものです。そこに、喜びと祝福される人生があります。今週も、御言葉を調べ、遣わされる所で実践してみましょう。

 (参考聖書箇所:使徒17章10〜12節、ヤコブ1章22〜25節)
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『覚悟を決めていたパウロ』

2016/12/11 12:00
2016年12月11日主の日礼拝式メッセージ要約
聖書    使徒言行録(使徒の働き)第21章1〜16節
メッセージ  『覚悟を決めていたパウロ』
メッセンジャー  田中文人牧師

 ヴィジョンの実現のためには、覚悟を決めて一歩踏み出すことが大切です。覚悟がなければ、反対や困難に直面したとき、挫折しかねません。それでは、ヴィジョンはとても実現していきません。その覚悟は、どこから与えられるのでしょうか?

 1.各地で反対されたパウロ:第三回伝道旅行の帰り道、パウロたちの一行は、ミレトスでエフェソの人たちに別れのメッセージをしてから、船を乗り継ぎ地中海を渡ってティルスに着きました。荷物の積み降ろしの間の七日間、パウロたちは、現地の弟子たちと主にある交わりをしました。ところが弟子たちは、霊に動かされ、パウロにエルサレムには行かない様に繰り返し言いました。それでもパウロは、七日後、また船に乗り込み、エルサレムを目指して出発して行きました。
 プトレマイスを経て次に立ち寄った場所はカイザリヤでしたが、そこでは、預言をする4人の未婚の娘を持つ宣教者フィリポの家に泊まっていました。すると何日か経った時、ユダヤからやって来たアガポが帯で自分の手足を縛って、エルサレムに行くならば、この様になると示しました。そこで、同行していたルカたちもパウロにエルサレム行きをやめる様、しきりに頼みました。
 ですが、その時のパウロの答えが、「泣いたり、わたしの心をくじいたり、いったいこれはどういうことですか。主イエスの名のためならば、エルサレムで縛られることばかりか死ぬことさえも、わたしは覚悟しているのです。」(13節)でした。これを聞いたルカたちは、「主の御心が行われますように」と言って、口をつぐみました(14節)。
 パウロはこの様に何度もエルサレムで苦難に会うことを告げられましたが、それ以前に彼自身にもイエスさまから知らされていました。ですから、パウロにとってこれらの預言は、主から告げられていたことを確認したに過ぎなかったといえます。
 2.御言葉による覚信と覚悟:ですが、いくら事前に主から直接知らされていたとは言え、なぜパウロはこれ程までに覚悟を貫き通せたのでしょうか?それは、やはり同じ主イエス・キリストからその先のヴィジョン=ローマに行きキリストを伝える使命=まで与えられており、そのヴィジョンのためにイエスさまご自身がパウロを遣わし、守るという御言葉まで与えられていたからです(使徒22章21節参照)。そこでパウロの覚悟は、彼自身の強さによるのではなく、御言葉によるものだったのです。ですから、いくら人々から苦難を予告されても、全く怯むことなくローマを望み見ながら、エルサレムに向かって、進み続けられたのです。
 3.私たちの覚悟:私たちもヴィジョンの実現に向けて一歩踏み出し、進み続ける時、覚悟が必要です。私たちには、聖書66巻が完成して与えられています。祈りと聖書によく聞くことを通して、何より聖句によって主から与えられたヴィジョンであることを確認しましょう。その確認が与えられるならば、覚悟も決まります。主から決断に導かれた覚悟であるならば、反対して来る人たちにも配慮を示しながら、ヴィジョンの実現に向かって進み続けられます。パウロも、反対者たちに愛を示し配慮を忘れませんでした。だからこそ多くの弟子たちが別れを惜しんで船まで見送りに来たのでした。

 (参考聖書箇所:マタイ16章24〜25節、タマルコ8章31節、ルカ9章51節、使徒20章22節、)
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『魂の回復T御言葉に耳を傾けたイスラエルの民』

2016/12/04 19:25
2016年12月4日主の日礼拝式メッセージ要約
聖書    ネヘミヤ記第7章72後半〜8章12節
メッセージ 『魂の回復T御言葉に耳を傾けたイスラエルの民』
メッセンジャー 田中文人牧師

 今日は、有明キリスト教会の「世界祈祷週礼拝式」です。いつも以上に、日本バプテスト連盟から世界各地に遣わされている宣教師とご家族、その地域に救い主イエス・キリストが宣べ伝えられることを願って祈りましょう。

 1.ネヘミヤ記の後半について: 今日から旧約聖書は、しばらくネヘミヤ記を読み進めます。ネヘミヤは、エズラがエルサレム神殿を再建した後、城壁の修復工事にあたりました。ですが、ネヘミヤが神様から与えられていた使命は、それだけではなく、民が、幸福な(祝福される)生活に戻されることでした。
 2.自ら律法の書の朗読を申し出た民:民が幸福でなかった最大の原因は、心からの礼拝を献げていなかったところにありました。ところがネヘミヤやエズラといった指導者たちが勧めたのではなく、長老たちをはじめ民は、第7の月に自らすすんで水の門の広場に集まって来ました。そして、一人の人のようになり、エズラにモーセの律法の朗読を願い出ました。ここから心からの礼拝=魂の回復が始まっていったと言えます。
 キリスト信仰の礼拝も、聖書の聖句ひとつひとつを熱心に聞くところからはじまります。私たちは、毎回その様な思いで、教会に集まっているでしょうか?
 3.「アーメン」とみ言葉を受け入れた民:律法の書を熱心に聞いた民は、「アーメン」と言いました。アーメンは、「その通りです」という意味です。聞いたみ言葉を受け入れ、「その通りです、アーメン」と言えるためには、「聖書は、誤りなき神の言葉」という信仰に立っている必要があります。聖書の内容に矛盾を感じることがあるかも知れませんが、いまの私たちには理解出来ないだけかも知れません。神様もイエスさまも私たちの理解を超えて存在し、働いておられます。そこに思いと目を向け、「み言葉だけには誤りがない」という視点で「アーメン」と受け入れましょう。
 4.み言葉を理解した民:エズラ他祭司たちの翻訳と説明によって民は、律法の書の意味を理解しました。心から「アーメン」といえるためにも、やはり、聖書理解は欠かせません。
 5.悔い改めに導かれた民:み言葉の意味がだんだん分かって来ると、民は、自分たちが、如何に的を外した生活をしているかに気付かされていきました。そして、心からの悔い改めに導かれ、涙を流して罪を悲しみました。
 6.主を喜んだ民:ですが、この日は喜びの礼拝を献げる日でしたからネヘミヤとエズラたちは、民に泣くのを止め、富んでいる者が貧しい者を助けて皆でご馳走を食べ、主を喜ぶように勧めました。

 私たちも聖書のみ言葉を熱心に聞き、アーメンと受け入れ、そして理解する時、罪の悔い改めに導かれます。キリストの十字架の血による罪の赦しをいただき復活を信じて永遠の命の約束にあずかるならば、礼拝は、喜びで満たされます。礼拝によって魂の回復が与えられ、祝福される日常生活に遣わされましょう。

 (参考聖書箇所:ローマ10章9〜10節、Uコリント7章10節)
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『共に歩まれるイエス様』

2016/11/28 20:28
2016年11月27日 主の日礼拝式メッセージ要約

聖書    ルカによる福音書第24章13〜35節
メッセージ   『共に歩まれるイエス様』
メッセンジャー  影山範文牧師

1 閉ざされた目(13〜17)  過越の祭の礼拝から自分の家に帰る途中の二人の主の弟子が、道を歩いていた。二人は、イエス様が十字架にかけられ、死んでしまったことについて話し合っていた。師とも主とも仰ぎ、奴隷の状態から国を救って下さると望みをかけていた方の死だから、そのショックはどれほどだったことだろう。イエス様ご自身が、旅人のように、そんな彼らと共に歩まれたのに、彼らの目は閉ざされていて、それと分からなかった。悩みや試練のただ中にあるとき、問題の大きさばかりが心を支配して、他が見えなくなってしまう。これは、後に分かるように、神が目を開いて下さらなければ、どうにもならないものである。イエス様はそんな二人に「歩きながら二人で話し合っている、その話は何のことですか」と問いかけられた。思い返すだけでも辛くむごたらしいイエス様の十字架の死のことを、この見知らぬ旅人に話さなければならないと考えるだけでも、暗い顔つきになるのは当然だった。でも二人は話さざるを得なかった。

 2 閉ざされた心(18〜24)  二人は丸二日経つか経たないほどの最近、エルサレムで起きて大問題になっている出来事が、この同行の旅人に伝わっていないのに驚いた。イエス様が「それはどんなことですか」とお尋ねになったのは、むろんそのことをご存知なかったからではなく、二人にそれを語らせることで、心の中の苦しみやわだかまり、問題を吐き出し、回復に向かわせるためだったのではないか。二人は、目だけでなく、心も閉ざされていたのである。苦しみや問題のために閉ざされた胸の内を吐き出すことで、ゆっくりと心が開いて行くものである。二人の閉ざされた心は、イエス様の問いかけによって開かれていった。二人の話は、我々が福音書で教えられたイエス様の地上のご生涯の要約だったが、そこに一つのひっかかりがあった。イエス様のよみがえりの事実を伝える女性たちの話が、二人を大いに混乱させた。二人はこれから後にイエス様が語られるみことばによって、さらに、心も目も開かれなければならなかったのである。

 3 開かれた目と心(25〜32)  主イエスはここで初めて、二人に語り出された。この時点で二人はまだ、主イエスに気付いていない。私は主の語り出しをこう想像する。「おばかさんねえ。預言者たち(旧約聖書)の言ったすべてを信じない、心の鈍い人たち。もしもあなたたちの話していた人が本当にキリスト(救い主)だったとしたら、…」(26)。そして旧約聖書からメシヤについて預言されていることを二人に説き明かされた。その間、彼らが後に言うように、心は内に燃え、目も開かれて、はっきりと主イエス様が見えるようになった(30〜32)。
 どんな困難や苦しみに遭っても、我々が気付かなくても、我々と共に歩んで下さる主イエスがおられること、その主が語られるみことばによって、我々の目と心を神に向かって、また人に対して開いて下さることを忘れず、主にお会いし続ける天国への旅を、進んで行こうではないか。


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『民すべてのためにさばきと恵みの業を行なったダビデ』

2016/11/23 17:46
2016年11月20日主の日礼拝式メッセージ要約
聖書   サムエル記下(U)8章1〜18節
メッセージ 『民すべてのためにさばきと恵みの業を行なったダビデ』
メッセンジャー 田中文人牧師

 社会で地位を得る様になると、様々な誘惑に遭うといわれます。特に、政財界で、賄賂をめぐるスキャンダルは、いつも話題になり、尽きることがありません。「あなたは賄賂を取ってはならない。賄賂は、目のあいている者の目を見えなくし、正しい人の言い分をゆがめるからである。」(出エジプト記23章8節)をはじめ、旧約聖書は、何度となく、賄賂に気を付ける様に命じています。それらの聖句から、現代だけでなく、この様な誘惑は、古代から続いていることがわかります。

 1.ダビデの政治: 今日の聖書箇所には、ダビデがイスラエル全体の王になってしばらく経った時のことが書いてあります。周辺諸国との戦いに勝利し、貢物も受け取る様にもなって来ました。その様な中でダビデは、王の権力をほしいままにしたのではなく、民全体の幸せのために労し、公平と正義を尽して国を治めました。主を畏れ、主を愛し信頼することがダビデの人生の土台に据えられていましたからこの様に国を治めることが出来たといえます。
 2.主を愛したダビデ: ダビデは心から創造主を愛しました。それは、ハマトの王トイが、ダビデ軍がハダドエゼルの軍勢を討ち滅ぼしたことを知った時、息子を遣わして、金、銀、青銅を送って来た時にダビデがしたことに現わされています。ダビデは、それらを自分やイスラエルのためには用いず、征服したすべての異邦の民から得た銀や金と共に、主のために聖別しました(11節)。聖別して、将来彼の子孫が神殿を建てる時のために備えたのです。様々な誘惑もあったと思われますから、これは大きな決断だったはずです。彼が、神様を愛することを第一に出来たのは、ここまでの戦勝が、自分の力ではなく、神様から与えられた勝利であること、以前に頂いていた約束の勝利であることを弁えていたからといえます。
 3.民を愛したダビデ: 彼は、すべての国民を正しく裁きました。また、多くの恵みの業を行ないました(15節)。私腹を肥やすのでなく、公共の福祉のためにも、彼は精いっぱい神様から委ねられた王の働きに仕えました。ここに、彼がイスラエルの民を愛していたことが現わされています。
 4.神を愛し、隣人も愛する歩みを: 私たちも人々と最大限公平に接し、誘惑に負けず、正義を貫く歩みを願い出たいものです。ですが、正義を行なおうとする思いが先に立つならば、いつしか律法主義に陥ってしまいます。今日まで主の守りと導きの中で生かされたことを感謝するところから始めましょう。何より、イエス・キリストの十字架の血による罪の赦しをしっかりいただき、イエスさまの死者の中からの復活を「事実」と受けとめ、永遠の命の約束にあずかりましょう。十字架の御業の大きさを知らされれば知らされる程、主の愛の大きさに気付かされます。その愛に感謝し、聖霊に満たされ、心から主を愛するところに押し出されましょう。隣人にも、主の愛で接し、御言葉にも沿う歩みに導かれていきます。

(参考、引用聖書箇所: 出エジプト23章8節、申命32章4節、箴言15章27節、Tテモテ6章11〜17節)
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『自分と群全体に気を配る信仰を』

2016/11/13 12:00
2016年11月13日主の日礼拝式メッセージ要約
聖書    使徒言行録(使徒の働き)第20章17〜38節
メッセージ 『自分と群全体に気を配る信仰を』
メッセンジャー     田中文人牧師

 地上で再会することはないだろうと予想される人に、どの様な別れの言葉を告げたいでしょうか?また、この世を去る時、家族等に何と言って召されたいと願っているでしょうか?そこを願う時、どの様な信仰の歩みを心がける様に、パウロは勧めているでしょうか?

 1.パウロの別れの言葉: ミレトに船が停泊している間に、60q離れたエフェソから呼び寄せた教会の長老たちに語った別れの言葉が24節、「自分の決められた道を走りとおし、また、主イエスからいただいた、神の恵みの福音を力強く証しするという任務を果たすことができさえすれば、この命すら決して惜しいとは思いません。」でした。1)神様から与えられた生涯を精一杯走り通したことと、2)救い主イエス・キリストを伝え続けられたことへの感謝です。パウロは、その様に生かされたので、本気でいつ召されてもよいと語っています。私たちも、この様な別れの言葉を告げるところに導かれるならば、幸いです。

 2.自分の信仰を守ること: そこで日頃から願い出たいことは、聖書の教えにしっかり立ち続けることです。「聖書は誤りなき神の言葉」の聖書観に立って、聖書からイエス・キリストを聞き取ることです。イエスさまは、完全な神であり、人であられること、処女マリヤに宿られたこと、何より、私たちの罪を帳消しにしてくださるため、十字架で死んでくださったこと、それから三日目に死者の中から復活され、いまも生きて働いておられ、神様と等しいところで私たちの祈りを神様に取り次ぎ、助け主(ぬし)聖霊を送ってくださっていること等です。十字架と復活が事実であることを信じ、そこに何があっても立ち続けることです。
 そして、祈りを通して、人格で、神様と交わり続けることです。
 さらに、イエスさまが、弟子たちに教え、示された天国(神の国)の原則に信頼して、日常生活の中でやってみることです。そうすれば、誤った教えに惑わされることからも守ってくださいます。

 3.教会全体に気を配ること: いくら上記の様なところに立って自分の信仰を守っていたとしても、ひとりだけのキリスト信仰では、自己流になりかねません。そこで、キリスト教会(集められた者の群)に属し、キリストの体の一部分に加わることが大切になります。その時、交わりや奉仕が個人プレイに落ち入らず、教会全体に気を配る様に心がけたいものです。教会の中で、「弱い者を助け」(35節)、「主イエス御自身が『受けるよりは与える方が幸いである』」(同節)に倣うようにしましょう。
 聖霊自ら、私たちを生かしてくださるところに信頼し、今週も言葉と業でキリストを証しする生活に遣わされましょう。そこを願っているならば、主に生かされ、福音を伝え、キリストと共に精一杯生きた証しの言葉と感謝を別れの時、告げるところに導いてくださいます。

 (参考聖書箇所: Uテモテ4章6〜8節)
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2016/11/06 15:01
2016年11月6日主の日礼拝式メッセージ要約
聖書    使徒言行録(使徒の働き)第20章1〜16節
メッセージ   『ことばと御業による励まし』
メッセンジャー  田中文人牧師

 1.「召天者記念礼拝」に当たって: 今日は、有明キリスト教会の「召天者記念礼拝式」です。例年同様、礼拝堂内に、故人の写真が置いてあります。ですが、写真のところに死者の魂が帰って来ているのではありません。写真は、故人を確認するために置いてありますから、手を合わせて拝んだり、拝礼したりする必要はありません。
 そもそも人は、「神様のところから来て神様に保たれ、そして神様のところに帰る」(ローマ11章36節)存在です。ですが、初めの人アダム以来、神様に背を向けて生きる様になってしまいました。神様は、そのままで人を受け入れられないご性質ですから、遂に御ひとり子イエスさまをこの世に送り込んでくださいました。そのイエスさまが私たちの身代りに十字架上で神様からの怒りを全部引き受けて死んでくださいました。いまの私たちは、このイエスさまを「私の救い主」と信じるだけで、どんな罪(的外れ)も十字架の血による赦しをいただけます。イエスさまが十字架から三日目に事実復活されたことを信じるだけで、永遠の命の約束にもあずかれることができます。
 死者の魂は、このキリストを信じていた方であれば、間違いなく完全な天国の待ち合い室(パラダイス)で安らいでおられます。キリストを信じておられなかった方の魂は、別の待ち合い室(ハデス)に移されます。そして、イエスさまが再臨される時、死者は全員復活します。その時イエスさまから「生きている間にキリストを信じていましたか?」とだけ尋ねられます。「はい」と答えた人は、完全な天国に迎え入られます。「はい」と答えられなかった人は、神様もイエスさまも聖霊も全くいないところに分けられます。これが滅びです。
 ですが、神様は、人が滅びることは望んでおられず、救いの恵みにあずかり、天に入れるよう、キリストを信じることを待っておられます。
 2.言葉で励まし、死者を蘇生させ人々を慰めたパウロ: 今日の聖書箇所でパウロは、エフェソを出発し、マケドニア州で、言葉を尽くして人々を励ましました。また、ミレトで、彼の話を聞いていたエウティコという青年が、居眠りして3階の窓から地面まで落ちて死んでしまった時、抱き上げて生き返らせました。この御業によって、その場にいた人々は、大変慰められました。いまでも、一端死んだ人が息を吹き返すならば、大変な喜びが起こります。
 3.御言葉による約束: いまの私たちにとって、何よりの励ましと慰め、力づけは、聖書の御言葉による約束です。福音書他に記されているイエスさまご自身の御言葉で、魂に安らぎと平安が与えられます(マタイ11章28節他)。
 何よりの御言葉による約束は、イエスさまを信じるだけで天国行きの切符が与えられ、先に召された方々と再会出来ることです。感謝して、この約束を受け取り、天で再会出来る時を臨み見ながら、今週も主の栄光を現わす歩みに遣わされましょう。

 (参考聖書箇所: マタイ11章28節、ローマ11章36節、フィリピ3章18〜4章1節、Tテサロニケ2章4節、)
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