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日本バプテスト連盟 有明キリスト教会 主日礼拝「宣教」要約
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『ヘシュボンを占領したイスラエル』

2012/05/20 21:21
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2012年5月20日の「宣教」から
『ヘシュボンを占領した
         イスラエル』
 聖書  申命記
         第2章24〜37節
 宣教者  田中文人牧師

 今日の聖書箇所の24節で神様は、カナンの地に向かって北進していたイスラエルの民に、七つのことを告げられました。それらが、「立ち上が」れ、「進」め、「アルノン川を渡」れ、「見よ」、ヘシュボンの王アモリ人シホンとその国をあなたの手に「渡した」、シホンに「戦いを挑」め、そして「占領を開始せよ」です。ヘシュボンは、死海の北東の端にある町です。
 これら七つの命令を見ると、不思議に思うかも知れません。それは、2章の前半(1〜23節)で神様は、カデシュ・バルネアから北に進む様に告げられたとき、途中のエドム、モアブ、そしてアンモンの民族には、戦いをしかけてはならないと命じられました。それにもかかわらず、今日のところでは、ヘシュボンに戦いを挑むように言われているからです。神様は、心変わりされたのでしょうか?

 私たちが覚えていたい神様のご性質は、全く聖なるお方であることです。「聖」には、「分離する」という意味があります。神様は、この世の何物にも頼る必要のないお方です。また、何にも属する必要もなく、おひとりで存在され、働かれるお方です。そして、その神様に背を向けるものを受け入れられないお方です。

 24節の命令を聞いたモーセは、26節で、まずは、ヘシュボンの国の王シホンにその国をただ歩いて通過させてほしい、必要な飲食料は、お金を払うので、とにかく、通してほしい、と頼みました。ところが、これを聞いたシホンは、彼の方から軍を引きい、イスラエルの民に攻めて来たのです。シホンは、モーセたち「人」に向かって行くと思っていたかも知れませんが、実は、その背後におられる神様に戦いを挑んでいることにほかなりませんでした。そこで神様は、ヘシュボンの国をイスラエルの民の前に置かれ、打たれたのです。
 神様は、心変りしたり、不公平を行なう様なお方ではありません。イスラエルの民であっても、神様に背を向け、逆らう者は、同様に滅ぼされるお方です。現に、荒野で呟き、神様が言われるところに従わなかった民は、全員ゼレデ川を渡るまでの間に死に絶えました。

 ところで、私たちは、自分のことをどの様なものだと思って生きているでしょうか?「大変すばらしい!」と思っているでしょうか?それとも、「何も出来ないものにすぎない!」と思っているでしょうか?
 まず、私たちがしっかり聖書から聞き取りたいことは、初めの人アダムとエバが犯した、神様の言われることを聞こうとしない思い(罪)を受け継いでいるということです。ですから、そのままならば、私たちも、聖なる神様から受け入れられず、滅びるしかない者に過ぎません。滅びることとは、神様との交わりから永遠に引き離されることです。人は皆、神様につくられ、命の息を吹き入れられて生かされている存在です。ですから、その神様から永遠に引き離されることとは、これ以上ない悲惨な状態に置かれてしまうことです。

 ですが、哀れみ深い神様は、その様な人に滅びから救われる道を与えてくださいました。それが、御ひとり子イエス・キリストです。本来私たち人が受けなくてはならなかった神様から引き離される最大の苦しみをイエスさまが身代りになって、十字架で死なれることにより引き受けてくださいました。この十字架の上で流された貴い血により、私たちの背きの罪は、全部赦されました。

 そこで、私たちが選び取りたいことは、まず、神様の方から差し出されている滅びから救われる道=救い主イエス・キリストを受け取ることです。私たちにも、「神様なしで生きていける…」という思いがどこかにあるのではないでしょうか?それが、人の罪ですから、その罪を認めて、神様に誤ることです。そして、神様が言われるところ=御心に従う人生を生きることです。神様は、「私の目にあなたは高価で尊い」(イザヤ43;4)と言ってくださっています。今週も感謝の内に、イエス・キリストと共に、聖霊の導きを得ながら、聖なる神様が喜ばれる歩みを進み続けましょう。

(参考聖書箇所: イザヤ43;4、ルカ22;28〜29)
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『誘惑に落ち入らずに祈りましょう』

2012/05/13 19:28
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2012年5月13日の「宣教」から
『誘惑に落ち入らずに
         祈りましょう』

 聖書  ルカによる福音書
      第22章39〜53節

 宣教者  田中文人牧師



 最後の晩餐が終わった後イエスさまは、いつもの様に、オリーブ山(ゲツセマネの園)に行かれました。ユダを除く弟子たちも、一緒に行きました。今日の聖書箇所には、そこで、あったことが記されています。ひとつは、イエスさまが、必死に祈られたことです(39〜46節)。ふたつ目が、ユダに連れられて来た人々に、イエスさまが捕らえられたときのことです(47〜53節)。

 1.御心がなる様に祈られたイエスさま
 ひとつ目に今日聞き取りたいことは、オリーブ山で祈られたイエスさまの祈りです。イエスさまは、これからご自分が十字架で死なれることもご存じでした。イエスさまにとって十字架で死なれることは、肉体の苦しみもさることながら、何よりも、初めからひとつである父なる神様と一端、完全に断絶されることを味あわなくてはならない苦しみでした。そこで、「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。」と祈られました。ですが、そこで終わらず、「わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」と続けて祈られました。
 私たちは、どの様な祈りをしているでしょうか?もちろん、どの様なことでも、祈ることは許されています。ですが、自分の願いで終わらず、「御心がなりますように…。」と祈ることが必要です。神様は、最善を行なわれるお方です。そこに信頼して、自分の願いを神様に押し付けるのではなく、御心に従えるよう祈りましょう。それが、キリスト信仰の祈りです。

 2.眠り込んでいた弟子たち
 一方弟子たちは、イエスさまが血の様な汗を流して、必死に祈っておられた間、誘惑に負けて眠ってしまいました。
 私たちにとっても祈りから引き離そうとすることは、すべて誘惑です。ジェームズ・フーストンは、その様な誘惑を八つ挙げています。1)暴飲暴食、2)他の肉体を欲しがる姦淫、3)(不安感から来る)貪欲、4)(憂鬱や息消沈につながる)不満足、5)怒り、6)落胆、7)虚栄心、8)プライド。この中で、「プライドが最も大きな罪であり、私たちを祈りから引き離す誘惑である」と書いています(『神との友情』)。私たちも、あらゆる誘惑から遠ざかり、神様との対話である祈りに励みましょう。

 3.祈ったイエスさまと祈らなかった弟子たちの結果
 その違いは、人々がイエスさまを捕らえに来た時にはっきり現れました。弟子のひとり(ペテロ)は、大祭司の手下のひとり(マルコス)に剣で切りかかり、その耳を切り落としました。一見、師であるイエスさまを守る勇気ある行動の様に思えますが、これは、これまでイエスさまが教えて来られたことに反する行動でした。イエスさまは、「剣を取るものは、剣で滅びる。」「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」と教えて来られましたから、いかなる時にも、ここに従うことが、御心でした。
 イエスさまは、マルコスの耳を癒され、刃向かうこともされず、捕らえられました。捕らえられ、侮辱され、十字架で死なれ、その血で全人類の背きの罪を赦すことが、神様の御心だったからです。
 私たちも、いつもの様に、常に祈っているか、いないかが、「いざ!」というときに結果になって現れます。充電池のように、祈った分だけ用いられるとも言われます。今日から、個人で、教会の祈祷会で、新たな思いで、祈りの生活を願い出ましょう。

(参考聖書箇所: マタイ26;36〜46、マルコ14;32〜42)
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『回り道をしても満たしてくださる神様』

2012/05/06 21:24
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2012年5月6日の「宣教」から
『回り道をしても満たしてくださる神様』
 聖書  申命記第2章1〜23節
 宣教者  田中文人牧師



 私たちは、回り道をすることになったとしても、正当な道を進もうとするでしょうか?それとも、人が見ていないところでは、多少ズルをしても近道の方を行こうとするでしょうか?実際に道路を行くときだけではありません。人生でも、時間がかかることになっても全うな方法を選択するでしょうか?それとも、とにかく、目的さえ達成出来れば、手段は問わないといった生き方をしているでしょうか?今日の聖書箇所申命記2章の前半には、回り道をしても、神様から「する」ように言われたところに従って進み続けたイスラエルの民の様子が記されています。

 1.親類も守られる神様
 まず今日聞き取りたいことは、父なる神様は、エジプトから約束の地カナンに向かって導いておられたイスラエルの民だけでなく、その親類に当たる民族も祝福しておられたことです。それらの民族にも神様は、土地を与え、雨を降らせ、産物を与え、養っておられました。
 それら親類に当たる民族が、エドム人(1〜7節)、モアブ人(8〜18節)、そしてアンモン人(19〜21節)です。エドム人は、ヤコブの兄エサウの子孫です。一杯のスープと引き換えに長子の権利を弟ヤコブに売ったエサウでしたが、神様は、その子孫も祝福しておられました。ですから神様は、イスラエルの民に、彼らに戦いをしかけてはならず、食料や水はお金を払って彼らから買うようにと命じられたのです。モアブ人ととアンモン人は、いずれもロトとその娘たちの間に生まれた子どもの子孫です。聖書では、近親相姦は「よし」とはされていませんが、その様な方法で生まれた者をも見捨てられないお方が神様です。
 私たちは、誰でもイエス・キリストを「救い主」と信じるならば、罪が赦され、永遠の命の約束が与えられます。ですが、クリスチャンになっても、すべての人とよい関係が保てるわけではありません。親類ともうまくいかないときもあります。その様なとき思いを向けたいところが、この御言葉です。神様は、クリスチャンだけでなく、その親類をも祝福し、守って養っていてくださいます。そこで、親類も含め、たとえ関係がよくない相手でも、その人が嫌がることはしない様にしましょう。また、果たさなくてはいけないことは、きちんと行なう様にしましょう。そして何よりも、親類の一人一人が一日も早くキリストを信じて天の御国に行く切符を受け取れるよう、とりなしの祈りに励みましょう。

 2.必要は満たしてくださる神様
 回り道をしてでも、神様が喜ばれ、相手も嫌がらない方法で生きようとするとき、気になることが、「それで、やっていけるか?」ということでしょう。そこで聞きたい聖句が7節です。神様は、イスラエルの民に、すべて必要なものは与え、40年に渡り、導き続けてくださいました。
 私たちにも同じ神様がいてくださいます。仮に、いまは、不可能としか思えないことでも、神様が選ぶ様に言われている方法ならば、必ず満たされます。そこに信頼して、「目的のためには手段を問わない」ではなく、「手段をも問う」人生を願い出ましょう。

(参考聖書箇所: 創世19;37〜38、〃25;32〜34民数20;17〜20、7、マタイ5;44〜45     (参考聖書箇所: )
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『主が仰せになった通りに』

2012/05/01 21:51
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2012年4月29日の「宣教」から
『主が仰せになった通りに』
 聖書  申命記
      第1章19〜46節
 宣教者  田中文人牧師





 私たちは、自分の性格をどの様に思っているでしょうか?天の邪鬼(あまのじゃく)なところはないでしょうか?天の邪鬼とは、「人の言うことやすることにわざと逆らうひねくれ者。つむじまがり。」(インターネットの国語辞典より)のことです。
 今日の宣教題は、21節から『主が仰せになった通りに』とつけました。意味は、「天の邪鬼にならず、神様が言われる通りに』です。その様に歩もうとする者を神様は、祝福してくださいます。逆に、神様が言われる通りにしないならば、思わぬ回り道をしなくてはならないこともあります。
 エジプトを脱出してカナンの地に向かっていたイスラエルの民は、残念ながら、天の邪鬼な者でした。そのために、彼らは、38年間も荒野をさまよう旅をすることになりました。
 民が天の邪鬼だったことのひとつ目は、カデシュからエシュコルの谷に偵察隊を遣わし、帰って来た時のことです。12人の偵察対は、大きなぶどう一房やその他の果物を持ち帰りました。その様な果物を神様から見せていただいただけでも、約束の地(住に適した豊かな土地)であることは間違いありませんでした。ですが、カレブとヨシュア以外の10人は、強い先住民がおり、町や城壁も堅く、とてもその様な所には入って行けないという報告をしました。それを聞いた民も、心が挫けてしまい、不平を言い、神様から「行け!」と言われていたにもかかわらず、進もうとしませんでした。
 モーセは、その様な民に、これまで神様が守り導いてくださった恵みを思い出させ、励ましました。しかし、それでも民は行こうとしなかったのです。ついに神様は、カレブとヨシュアとそれに、まだ善悪のわからない子どもたちだけが約束の地に入れ、後の者たちは皆荒野で死ぬと告げられました。
 ところが、それを聞いた民は、今度は、神様から進むように言われていないにもかかわらず、山地に登って行ったのです。これが、民のふたつ目の天の邪鬼です。その結果、蜂の子を散らす様に先住民に追われ、打ち破られてしまいました。
 私たちも、天の邪鬼な思いに気付かされた時は、すぐに神様にあやまりましょう。そうすれば、どの様なことでも、イエスさまの十字架の血で赦していただけます。そして、また、やり直す道を与えてくださいます。神様は、どこまでも私たちを見捨てられませんが、私たちも、言われていることをよく聞き、そこに従う歩みを願い出ることが大切です。
 まずは、聖書から神様がどの様にする様に言われているかをよく聞き取ることです。ふたつ目に、神様は、人を通しても御心を示されることがありますから、人の話しも聞く様にしましょう。そして、よく、祈りましょう。祈りを通して神様と親しく交わり、相談するならば、御心が次第に明らかになって来ます。今週も、天の邪鬼な思いは悔い改め、少しでも御心に従う歩みを願い出ましょう。主がする様に言われたことならば、私たちが難しいと思う様なことでも、必ず実現に導かれます。
(参考聖書箇所: 申命1;1〜18、詩編119;105、他)
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『霊の剣を備えましょう』

2012/04/25 10:31
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2012年4月22日の「宣教」から
『霊の剣を備えましょう』
 聖書  ルカによる福音書
      第22章1〜38節
 宣教者  田中文人牧師






 いよいよイエス・キリストが十字架で死なれる時が迫って来ました。今日から読み始めるルカ22章は、十二弟子のひとりイスカリオテのユダが自らユダヤ教の指導者たちにイエスさまを売り渡すことを申し出たところから始まっています(1〜6節)。その様な中、イエスさまは、坦々と神様から委ねられた働きを続けられました。
 まず、ユダヤ教の三大祭りのひとつ、過越しの食事の準備を弟子たちに命じられました(7〜13節)。そして、その食事の席で、聖餐式を制定されました(14〜23節)、さらに、他の福音書には記されていないいくつかの教えを弟子たちに語られました(24〜38節)。そして、ゲツセマネで祈られ、人々に捕らえられ、裁判を受けられました(39〜71節)。

 1.すべてをご存じだったイエスさま
 今日の聖書箇所から私たちが聞き取りたいことは、まず、イエスさまが、これから起こることを全部知っておられたことです。
 そのひとつは、ご自分の死についてです。旧約聖書に預言されている通り、イエスさまはちょうど過越しの祭りの時に殺される羊の様に、人の魂を滅びから救い出すために、「犯罪人のひとりに数えられ」(37節)殺されました。それが、キリストの十字架上での死です。その死についてご存じの上で、ここまで弟子たちを教えたり、病んでいる人々を癒したり、その他の御業を行って来られました。ご自分を十字架に引き渡す者が、十二弟子のひとりユダであることもご存じでした。
 さらに、ユダ以外の弟子たちについても、ペテロがイエスさまの裁判中、鶏が鳴く前に3度イエスさまを「知らない」と言うことも知っておられました。。

 2.働きを忠実に全うされたイエスさま
 その様な中でイエスさまは、ご自分が地上でしなくてはならない働きを忠実に行なわれました。ひとつが、聖餐式の制定です。弟子たちに配られたパンは、イエスさまの体=十字架で裂かれる体=を表していることを告げられました。また、ぶどう酒は、十字架で流される貴い血による新しい契約を表すことも教えられました。
 キリスト教会は、今も聖餐式を行なっています。私たちも、イエス・キリストを「私の救い主」と信じる信仰を持って、聖餐式で配られるパンとぶどう液(酒)にあずかる時、キリストを内側にいただくことになります。
 ふたつ目は、ペテロのために神様にとりなしの祈りをされ、彼を励まされたことです。ペテロも約3年間イエスさまと寝起きを共にし、弟子たちの中でもヨハネ、ヤコブと共に、特にイエスさまのそばで訓練を受けて来ました。年齢からも彼は、弟子の筆頭でした。ですが、イエスさまがこれから十字架で死なれることも、仲間のユダが裏切ることも、いまイエスさまがどの様な思いで語っておられるかも全くわかっていませんでした。最後の晩餐の最中、他の弟子たちと一緒に、「天国では誰が一番偉いか…?」等と討論する者に過ぎませんでした。ましてや、このあと間もなく、イエスさまを「知らない…!」と言ってしまうことに思いを至らせることも出来ませんでした。イエスさまからそのことを予告されたときも「主よ、御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」と答えています。イエスさまとは対照的に、自分のこともわかっていない弟子の姿がここに表されています。イエスさまは、その様なペテロのために、神様に祈ってくださいました。とりなしの祈りをされただけでなく、「あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」と励ましてもくださいました。
 私たちもペテロと同じ自分に気付かされます。イエスさまのことをどれだけ知っているでしょうか?「主に従いたい…」と願いながら、考えや人と交わす会話は、どれだけ天国の基準で語っているでしょうか?気が付くと私たちも弟子たちと同じ様に、この世の価値基準で人や自分、もの事を見ているものに過ぎないのではないでしょうか?天国の基準は、「誰がえらいか」(人との比較)ではなく、自己中心を捨て、人に仕えること(26節)です。その模範をイエスさまは示してくださいました。
 イエスさまは、その様な私たちのためにも十字架で死んでくださいました。そして、復活され、いまも私たちを神様にとりなしてくださっています。私たちにも、「立ちなおったならば、私の羊を飼いなさい。」と励ましてくださっています。

 3.霊の剣を備えましょう
 今日の聖書箇所に示されている様なイエス・キリストの私たちひとりひとりの愛を知らされるとき、願い出たいことが、「剣を買うこと」です(36節)。この「剣」は、霊の剣です。それが、聖書の御言葉(聖句)です。毎日毎日聖書を読み続け、魂がひとつひとつの御言葉に養われることにより、体に御言葉を蓄えましょう。ユダにサタンがつけ込んで来た様に、私たちも、イエスさまを裏切る誘惑にさらされています。それ程、この世の力―イエスさまを信じるのでなく、人や自分、人間の知恵に頼って生きようとする力―は強力です。聖書の御言葉を体に蓄えているならば、聖霊なる神様が時に応じて、「霊の剣」で戦ってくださいます。そして、信仰の勝利に導いてくださいます。今週も、日々、しっかり聖書の御言葉につながりましょう。そして、真っ直ぐ天を目指して進み続けましょう。
(参考聖書箇所: イザヤ53章、マタイ26;15、ヨハネ2;52、〃12;6、エペソ6;10〜20)
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『約束の地を目指して再出発しましょう』

2012/04/16 11:15
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2012年4月15日の「宣教」から
『約束の地を目指して
     再出発しましょう』
 
 聖書  申命記
      第1章1〜18節
 宣教者  田中文人牧師

 1.申命記について
 今日から旧約聖書は、申命記を読み始めます。この書は、旧約聖書で五つ目、律法の書の最後に当たります。「申命」とは、繰り返し語るという意味です。出エジプト記で告げられたモーセの十戒他と同じ内容の律法が、この書でも繰り返されています。ですが、ただ繰り返されているのではありません。今日の1章にある様に、イスラエルの民はモーセに導かれてエジプトを脱出し、40年間荒野の旅を続けました。そして、ようやく、ヨルダン川越しに、約束の地カナンを望み見るところまでたどり着きました。40年経つと、世代もかわります。シナイ山で十戒をモーセから直接聞いた民は、ほとんど残っていませんでした。また、民は、荒野で罪を犯してしまいましたから、モーセを含め、ヨシュアとカレブ以外は、カナンに入ることを許されませんでした。ヨシュアに導かれて、これからカナンに入る民は、律法を直接モーセから聞いたことがない若者たちでした。そこで、モーセは、ヨルダン川を渡る前に改めて神様からの命令を語ったといえます。
 その様なこの書には、モーセの3つの説教と彼の最後の言葉が記されています。モーセが死んだことまでこの書には書いてありますから、モーセと彼に近い者により、書き残されたものと受け止めましょう。これからこの書を通して、神様の民への恵みと命令を聞き取っていきます。

 1.神様からの恵み
 今日の1章前半から読み取れる神様の恵みは、まず、イスラエルの民への約束を忘れることなく、着々と実現してくださったことです。それは、彼らの父祖アブラハムに告げられた祝福の約束でした。神様はアブラハムに、彼の子孫を海の砂、空の星の様に増し加えること、その子孫に乳と蜜の流れるカナンの地を与えることを約束されました。
 この約束は、民がエジプトに430年間住んでいた間も忘れられてはいませんでした。エジプトを脱出したときの民の数は、男だけでも60万人です。女性と子どもを合わせると、計200万人もの民が、カナンに向かって旅をして行きました。代はかわりますが、神様は、それ程多くの人数に民を増してくださっていたと言えます。
 もうひとつは、民の中にリーダーを立てる様、知恵をくださったことです。モーセがリーダーに立てられ、民を導いていましたが、彼一人では、民の中に絶えず起こる課題を解決することは不可能でした。そこで神様は、シナイ山の辺に民が宿営していたとき、モーセの妻の舅、エテロを通して、知恵を与えられました。それが、千人隊長、百人隊長、そして十人隊長を選び、日々の課題は彼らが裁く様に、大きな事だけをモーセのところに持って来る様にすることです。ここにも、大勢の民が約束の地に向かう時必要な神様の恵みが表されているといえます。

 3.神様からの命令
 今日私たちが聞き取りたいことは、イスラエルの民に神様が、「向きを変えて、出発する様に告げられたことです(7節)。この御言葉を聞いたとき、民は、まだ、シナイ山付近にいました。その様な民に主は、既にカナンの地は、民に与えられているから、出発する様に命じられました。
 私たちにとってカナンの地は、最終的には、天国です。イエス・キリストを信じたその時から、私たちにも神様は、その天を、相続する約束をくださっています。
 クリスチャンの人生にも、様々なことがあります。その人生の歩みは、イスラエルの民がエジプトを出てカナンの地に入るまでの荒野の旅に重なります。出エジプトは、バプテスマを受けた時=クリスチャンの歩みを始めた時と言えます。エジプトを出た民は、しばらくは、喜んでいましたが、すぐに、「水がない、食料もない」と言い出し、ついには、「エジプトで死んでいればよかった」とまで呟き、モーセを攻めました。信仰生活にも同じ様なことがあり得ます。
 そこで、私たちが立ち返りたいことは、神様からいただいた恵みを数えることです。神様は、私たちがイエスさまを信じる前から、多くの恵みを与えて導き続けてくださいました。私たちは、どれだけ神様からの恵みに答えて来たでしょうか?恵みを数えれば数える程、私たちの罪の大きさに気付かされます。その罪を全部買い取ってくださった御業が、救い主イエス・キリストの十字架です。
 示されている罪は、すぐに悔い改めましょう。そして、十字架の血による赦しを得て、御言葉に従う歩みをやり直しましょう。神様はどこからでも許してくださいます。今週も、主の恵みを数えながら、天を目指して進み続けましょう。

(参考聖書箇所: 創世15;5〜6、〃13〜16、出18;20〜22、申命34;5、イザヤ40;31)
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『失望から希望へ = キリスト復活の事実』

2012/04/12 20:33
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2012年4月8日の「宣教」から
『失望から希望へ =
      キリスト復活の事実』
 聖書  ルカによる福音書
      第24章13〜35節
 宣教者  田中文人牧師

 イースター、おめでとうございます。イースターは、「復活祭」とも言われます。十字架で死なれたイエス・キリストが、十字架から三日目の日曜の朝、甦って墓の中から出て来られたことを記念して祝う、キリスト信仰で、最も古い祝日です。
 今年のイースターは、ルカによる福音書の24章に記されている復活されたイエスさまが、ふたりの弟子たちにその姿を現された記事からメッセージを聞き取りましょう。

 このふたりの弟子は、おそらく、夫婦で、エマオという村に帰る途中でした。そこへが現れ、「やり取りしているその話は何のことですか」(17節)と尋ねられました。この旅人が、復活されたイエスさまでしたが、彼らふたりの霊の目は遮られていたので、イエスさまだとはわかりませんでした(16節)。その様なふたりにイエスさまは、「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」と言われ、旧約聖書全体を解き明かされました(25〜27節)。それでも、まだ、このふたりは、イエスさまだとはわかりませんでした。
 そのうちに、ふたりの家があるエマオに着きました。日も傾いていましたがイエスさまは、まだ先に進んで行かれる様子でした。そこでふたりは、自分たちの家に泊ってもらう様、引き止めました。そして、ふたりの家で、パンを裂かれた時、霊の目が開け、ようやく「イエスさま!」だと気付きました。その時、イエスさまの姿は見えなくなりました(31節)。そこでふたりは、急いでその日の内にエルサレムへ引き返し、弟子たちがいた家に行き、復活されたイエスさまと出会ったことを伝えました。

 この聖書記事から私たちが今日聞き取りたいことは、はじめのうち、このふたりの弟子たちには、希望がなかったことです。彼らも含め、弟子たちは、イエスさまを「預言者のひとり」(19節)と思っていました。あのモーセがエジプトで苦しんでいたイスラエルの民を乳と蜜が流れるカナンの地に導き出した様に、自分たちをローマ帝国の悪政から救い出してくださるイスラエルの王だと期待していたのです。ですが、そのイエスさまが最悪の死(十字架)で死んでしまいましたから、彼らは、望みを失い、暗い顔で自分たちの家に向かっていたのです。 
 イエス・キリストの十字架の御業は、キリスト信仰の中心です。十字架の血による罪の赦しを得ない限り、本当の意味での魂の回復はありません。ですが、十字架だけに目を向けているならば、私たちも希望に燃やされることはないでしょう。

 その希望が、「復活」です。イエスさまは、死に打ち勝たれ、甦られました。この出来事を事実と受けとめ、復活の主を信じるところから、私たちの希望に満ちた人生も始まります。イエスさまは死から甦られたのですから、最大の課題である死に打ち勝たれたお方です。私たちも、イエスさまがもう一度この世に来られる再臨の時には、皆、死から復活する恵みに与れます。そして、生きている間にキリストを救い主と信じていた者たちは誰でも完全な天国に迎え入れられます。死後の世界は、ありますし、完全な平和で満たされている天で、永遠に神様、イエス様と共にいられることもキリストを信じるだけで約束されます。そこにこそ、私たちの最大の希望があります。

 復活されたイエスさまは、いまは、神様と等しいところから私たちを神様にとりなして祈っておられます。聖霊なる神様を私たちに送り、半歩前を歩んでくださいます。まずは、この救い主イエス・キリストが復活されたことを聖書から聞き取りましょう。聖霊の導きを得ながら、真摯な態度で聖書を読むならば、ふたりの弟子たちが、イエスさまの解き明かしを聞いて心が燃やされた様に(32節)、私たちの内側も燃やされます。次に、聖書からイエスさまの復活の事実を聞き取ったならば、そのイエスさまを信じましょう。日常生活の中で、「これは、神様、イエス様が共にいてくださった出来事だとしか思えない!」ということを通しても、私たちは、主を信じるところに導かれます。
 神様は、私たちひとりひとりを愛してくださっていますから、最善に導いてくださいます。思い通りに願いがかなえられないと思ったり、艱難の中に置かれていると感じたりするときでも、神様が見放しておられるのではありません。神様は、私たちが願う以上のことを備えてくださっています。たとえ、この世では日の目を見ないとしても、キリスト信仰に与っているならば、いつか必ず実現する完全な天国には入れていただけます。その点では、この世の価値観は、逆転します。忠実にイエスさまに従っていたならば、間違いなく天の上席に迎え入れられます。そこに最終的な希望を置き、復活の主と共に、今週も歩み続けましょう。

(参考聖書箇所: マタイ27;18、〃28章、マルコ16章、ルカ24章)
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