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2012/05/20 21:21

2012年5月20日の「宣教」から
『ヘシュボンを占領した
イスラエル』
聖書 申命記
第2章24〜37節
宣教者 田中文人牧師
今日の聖書箇所の24節で神様は、カナンの地に向かって北進していたイスラエルの民に、七つのことを告げられました。それらが、「立ち上が」れ、「進」め、「アルノン川を渡」れ、「見よ」、ヘシュボンの王アモリ人シホンとその国をあなたの手に「渡した」、シホンに「戦いを挑」め、そして「占領を開始せよ」です。ヘシュボンは、死海の北東の端にある町です。
これら七つの命令を見ると、不思議に思うかも知れません。それは、2章の前半(1〜23節)で神様は、カデシュ・バルネアから北に進む様に告げられたとき、途中のエドム、モアブ、そしてアンモンの民族には、戦いをしかけてはならないと命じられました。それにもかかわらず、今日のところでは、ヘシュボンに戦いを挑むように言われているからです。神様は、心変わりされたのでしょうか?
私たちが覚えていたい神様のご性質は、全く聖なるお方であることです。「聖」には、「分離する」という意味があります。神様は、この世の何物にも頼る必要のないお方です。また、何にも属する必要もなく、おひとりで存在され、働かれるお方です。そして、その神様に背を向けるものを受け入れられないお方です。
24節の命令を聞いたモーセは、26節で、まずは、ヘシュボンの国の王シホンにその国をただ歩いて通過させてほしい、必要な飲食料は、お金を払うので、とにかく、通してほしい、と頼みました。ところが、これを聞いたシホンは、彼の方から軍を引きい、イスラエルの民に攻めて来たのです。シホンは、モーセたち「人」に向かって行くと思っていたかも知れませんが、実は、その背後におられる神様に戦いを挑んでいることにほかなりませんでした。そこで神様は、ヘシュボンの国をイスラエルの民の前に置かれ、打たれたのです。
神様は、心変りしたり、不公平を行なう様なお方ではありません。イスラエルの民であっても、神様に背を向け、逆らう者は、同様に滅ぼされるお方です。現に、荒野で呟き、神様が言われるところに従わなかった民は、全員ゼレデ川を渡るまでの間に死に絶えました。
ところで、私たちは、自分のことをどの様なものだと思って生きているでしょうか?「大変すばらしい!」と思っているでしょうか?それとも、「何も出来ないものにすぎない!」と思っているでしょうか?
まず、私たちがしっかり聖書から聞き取りたいことは、初めの人アダムとエバが犯した、神様の言われることを聞こうとしない思い(罪)を受け継いでいるということです。ですから、そのままならば、私たちも、聖なる神様から受け入れられず、滅びるしかない者に過ぎません。滅びることとは、神様との交わりから永遠に引き離されることです。人は皆、神様につくられ、命の息を吹き入れられて生かされている存在です。ですから、その神様から永遠に引き離されることとは、これ以上ない悲惨な状態に置かれてしまうことです。
ですが、哀れみ深い神様は、その様な人に滅びから救われる道を与えてくださいました。それが、御ひとり子イエス・キリストです。本来私たち人が受けなくてはならなかった神様から引き離される最大の苦しみをイエスさまが身代りになって、十字架で死なれることにより引き受けてくださいました。この十字架の上で流された貴い血により、私たちの背きの罪は、全部赦されました。
そこで、私たちが選び取りたいことは、まず、神様の方から差し出されている滅びから救われる道=救い主イエス・キリストを受け取ることです。私たちにも、「神様なしで生きていける…」という思いがどこかにあるのではないでしょうか?それが、人の罪ですから、その罪を認めて、神様に誤ることです。そして、神様が言われるところ=御心に従う人生を生きることです。神様は、「私の目にあなたは高価で尊い」(イザヤ43;4)と言ってくださっています。今週も感謝の内に、イエス・キリストと共に、聖霊の導きを得ながら、聖なる神様が喜ばれる歩みを進み続けましょう。
(参考聖書箇所: イザヤ43;4、ルカ22;28〜29)
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