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有明キリスト教会ブログ--今週の聖書の言葉
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日本バプテスト連盟 有明キリスト教会 主日礼拝「宣教」要約
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『主に用いられた人々』 

2017/10/16 21:00
2017年10月15日主の日礼拝式メッセージ要約
聖書    サムエル記下第17章15〜29節  
メッセージ   『主に用いられた人々』   
メッセンジャー  田中文人牧師

 意識して「神様のために…」働こうとすることもありますが、自分でも思いもよらない時に、考えてもいなかった方法で主のために用いられることもあります。

 1.アヒトフェルの死: ダビデ王からアブサロム側の助言者に鞍替えしていたアヒトフェルは、自分の提言が退けられたことを知ると身の行く末まで見通し、身辺処理まで済ませました。そして「首をつって死に、祖先の墓に葬られ」(23節)ました。彼は、どこまでも自分の利益になることを考えて動いていたのではないでしょうか?

 2.ダビデ王のために動いた人々: 1)フシャイ=「荒れ野の渡し場で夜を過ごさず、渡ってしまわなければなりません。」と祭司たちに告げ、伝令を送りました。それは、「王と王に従う兵士が全滅することのないように。」するためでした(16節)。 2)遣いの女=彼女は祭司から告げられたことをその息子たちに伝える役割りを忠実に果しました。 3)バフリムのある男の家の妻=祭司の息子たちはアブサロム側の追手を察知し、バフリムのある男の家に入り、そこにあった井戸の中に身を隠しました。そこの妻はビックリしましたが、とっさの判断で、井戸の上に覆いを広げ、脱穀した麦を置きました。そして追いかけて来た者たちに「ここを過ぎて川の方に行きました。」と告げました。彼女は自分でも思いがけない言動で、主のご計画のために用いられたと言えます。 4)三名の協力者たち=ダビデは、マハナイムに着くと、ナハシュ、マキル、そしてギレアド人バルジライの三人から、寝具や食料等、これから必要な物資の提供を受けました。
 上記の4組の人々がネットワークの様に用いられ、ダビデ軍はヨルダン川の東に逃がれ、安心して休息を取り、作戦を練り、準備することが出来ました。

 3.主のために:いまの私たちも救い主イエス・キリストのために、「主の栄光を現わす」ために用いられることを願い出たいものです。2.の人々の中には、自分で意識してダビデ王のために考えて動いた者たちもいました。しかし3)の妻の様に思わぬところで用いられた人もいました。彼女は、直感によって「この人たちは守らなくてはいけない…」と感じたはずです。だからといって、自己中心に生きている人がこの様な働きに用いられることは、めったに無い筈です。やはり日頃から良心に従っている人、御心を尋ねている人を主は用いられます。
 私たちが願い出たいことは、主を畏れかしこむこと、日頃から「何が主のためになることなのか?」を聖書の御言葉から聞き取り祈っていることです。何より規則的に礼拝することです。地味ですが、その様な者を主は用い、祝福してくださいます。

 (参考聖書箇所:Tテモテ1章18〜19節)
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『キリストには替えられません』

2017/10/08 12:00
2017年10月8日主の日礼拝式メッセージ要約
聖書    フィリピの信徒への手紙第3章1〜11節  
メッセージ   『キリストには替えられません』   
メッセンジャー  田中文人牧師

 キリスト信仰は「喜び」です。そのことをパウロは、繰り返しこの手紙で書き送っています。その「喜び」とは、どの様な喜びでしょうか?また、パウロ自身どの様にして得たのでしょうか?
 1.ただのボジティヴ シンキングではなく:何でもかんでもうれしがる喜びではありません。警戒しなくてはならないことには敏感になり、しっかり見極め、惑わされない様にする必要があります。その点でただのポジティヴ シンキングとは違います。二千年前、警戒しなくてはならなかったことは、ユダヤ教時代の割礼を受けないと、本当のクリスチャンではないと言っていた人たちです。彼らは、なおユダヤ教の儀礼にしがみ付いたままでした。
 2.本もののキリスト信仰者(3節):1)神の霊によって礼拝する者=体に傷(割礼)があるかないかではありません。「イエス・キリストを救い主」と信じる信仰によって霊と真による礼拝を献げる人です。
 2)キリスト・イエスを誇りとする者=「私が私が…」ではなく、キリストを愛し、自分は低くし、キリストを高く崇める人です。
 3)肉に頼らない者=自分の血筋や家柄、学歴、経歴を拠り所にせず、聖書の御言葉に頼る人生を歩む人です。
 3.肉に頼っていたパウロ(5・6節):この様に書いているパウロもかつては、自分に頼り、家柄や学歴等を誇りにしていました。彼は、れっきとしたユダヤ人で、当時最高の学問も修めていました。信仰の面でもバリバリの律法主義者でした。そのうえキリストを信じる様になった人たちを迫害する先頭にも立っていました。
 4.180度変えられたパウロ(7・8節):ところが、復活されたイエス・キリストに出会ってもらったその時からパウロは生きる向きを180度変えられました。自分が迫害していたクリスチャンたちが信じ、命をかけていたキリストが、本当に復活され、生きて働いておられることを身をもって知らされたからです。
 それからのパウロは、この救い主と人格で深く交わる様になりました。すると、次第に、キリストのすばらしさを知る様になりました。そしてそれまで誇りにしていたことが、無益なものに思えて来ました。ついには、損失と見るようになり、塵あくたと見なすようにまで変えられたのです。
 5.「義」とされた喜び(9〜11節):「義」は、神様と正しい関係に迎え入えられるという意味です。神様の子どもにしていただくとも言えます。私たちも、ただキリストを「私の救い主」と信じるだけで同じ恵みに与ることが出来ます。そして、日々聖書の聖句に養われ、毎回心から礼拝し祈るならば、次第に「キリストには替えられません」というところに導かれます。そこを願い出ながら、今週の歩みに遣わされましょう。
 (参考聖書箇所:ヨハネ4章24節、フィリピ2章6〜8節、)
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『フシャイの意見も聞きたくなったアブサロム』

2017/10/01 21:29
2017年10月1日
主の日礼拝式メッセージ要約
聖書  サムエル記下第17章1〜14節  
メッセージ『フシャイの意見も聞きたくなったアブサロム』   
メッセンジャー 田中文人牧師

 「自分でもよくわからないけれども、そうしたいと思った」ということはないでしょうか?今日のアブサロムも同じ思いだったのではないでしょうか?
 1.アヒトフェルの提言(1〜5節):アヒトフェルは、彼が一万二千人の兵を選び、今夜のうちに追跡すれば、確実にダビデを捕えられると、アブサロムに申し出ました。これは、ダビデたちが疲れ果てているところを攻める策戦です。休息と立直す時間を与えませんし、アヒトフェル側にとっては、最少限の犠牲で勝利出来る戦略で、大変優れていました。アブサロムも周りにいた長老全員の目にも「正しい」と映りました。
 2.フシャイの提言:ところがなぜかアブサロムは、フシャイの意見も聞いてみたくなりました。彼は、ダビデからスパイの役を託され、アブサロム側に寝返ったふりをしていました。フシャイは、アヒトフェルの提言について、「今回は」優れていないと説明するところからはじめました。続けて彼は、アブサロム自身がイスラエル全国から兵を集めるように、そしてアブサロム自身が先頭に立ってそれらの兵を指揮して出兵するように、その様にして隠れ場のひとつにいるダビデを打つように、町にいるならば町ごと縄をかけて川に引いて行くようにと提案しました。勇敢なダビデは仲間の兵士たちと一緒にいるはずはなく、その様な中、いま出ていき、アブサロム側の兵が少しでもダメージを受けるならば、イスラエルの民の思いもアブサロムから離れるという理由からでした。
 3.摂理によるフシャイたちの決定:上記二人の提案を冷静に比べるならば、アヒトフェルの方が優れていることは、明らかでした。なぜならば、フシャイの案では、イスラエル全地域から兵を集めるために日数が必要になります。その間にダビデ側に休息と立直す時間を与えてしまうことになるからです。
 ですが、アブサロムは、フシャイの案の方を採用しました。また長老たちも同じ様に受け入れました。なぜこの様なことが起きたのでしょうか?
 フシャイはいまから三千年前のイスラエルでよくつかわれていた熊を譬えに、ダビデ側の状況を説明しました。それが彼らに受け入れられやすかったことは間違いありません。またアブサロムの自尊心にも訴え掛けました。ですが、それ以上に14節にある通り、「アヒトフェルの優れた提案が捨てられ、アブサロムに災いがくだることを主が定められたからである」。人の知恵では理解出来ない摂理が働いて、思わぬ方向に向かうことになったのです。
 4.高ぶらず御言葉によく聞くことから:現代でも主の摂理は働きます。私たちも「なぜか…をするように感じた。」という体験をすることもあります。また、予想に反する大逆転も起きます。そこに用いられることもあります。毎週の主の日の礼拝で心から生きて働いておられる父なる神様と救い主イエス・キリストを聖霊に導かれて畏れかしこみ喜びましょう。また毎日自分でも聖書につながり、天国の原則を聞き取り、そこに沿って歩めるよう祈りましょう。主は摂理に従って祝福し用いてくださいます。
 (参考聖書箇所:箴言19章21節)
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『福音のために』

2017/09/24 20:00
2017年9月24日主の日礼拝式メッセージ要約
聖書    フィリピの信徒への手紙第2章19〜30節   
メッセージ  『福音のために』   
メッセンジャー  田中文人牧師

 今日の聖書箇所には、ここまでパウロがフィリピの信徒たちに書き送って来た勧めを実践していたふたりのキリスト信仰者たちのことが記されています。(フィリピ2章、参照)
 1.テモテ(19〜24節):彼は、三代目のクリスチャンでした。また、パウロの伝道旅行に同行し、成熟したキリスト信仰者に成長していきました。
 彼は、1)パウロと同じ思いでフィリピ教会のことを真剣に心配し、祈っていました。2)「確かな人物」(22節)でした。これは、試験に合格するという意味で、伝道・牧会者に相応しい人物ということです。3)何より福音のために熱心に働き、御言葉に仕えていました。彼は、ちょうど子が父に従うように、御言葉に従っていたのです。
 その様なテモテをパウロは、フィリピに遣わそうとしていました。パウロのために祈り献げていたフィリピ教会に裁判の結果を伝えるためです。また、フィリピ教会の様子をテモテが見て、それをパウロに報告してもらい恵を分かち合いたいという思いもありました。
 2.エパフロディト(25〜30節):彼は、フィリピ教会のメンバーでした。このとき彼は、1)パウロを支援するためにフィリピ教会で集められた献金を届けるために、2)フィリピ教会を代表してしばらくパウロを助けるために、送り出されました。
 ところが、旅を急いだためかも知れません。ローマに着くと重い病気に罹りました。ところが、2千年前であったにもかかわらず、彼が病に罹ったことがフィリピ教会に伝わり、フィリピの群れは彼の回復のために祈りました。自分の病が伝わったことをエパフロディトは心苦しく思うとともに、フィリピ教会の祈りが聞かれたことを感謝しました。そして、癒されて元気になった姿を早くフィリピの兄姉に見てもらいたいと願っていました。テモテと同じ様に彼も命をかけて委ねられた働きに励んだ信仰者でした。
 3.パウロの信仰:上記二名だけでなく、パウロ自身もここまでフィリピ教会に勧めて来た信仰の歩み =自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払う(2章4節)歩みに献身していました。それが、テモテをフィリピに遣わし、エパフロディトを同じフィリピ教会に戻すことでした。これら二名がいなくなると、物心両面でパウロにとっては痛手だったはずです。それでもパウロは、自分のことは後まわしにして、喜んで彼らを送り出すことに決めていました。
 4.愛されるだけでなく:彼ら三名がこの様なところに喜んで遣えることが出来たのは、キリストの十字架の血による罪の赦しをいただき、キリストが事実復活されたことを信じて永遠の命の約束に生かされていたからです。そこを人生の土台に据え、今度はそのキリストの「福音のために」最善を尽していたと言えます。
 私たちも同じ救いの恵みにあずかったならば、神様を愛し隣人を愛する歩みを願い出ましょう。主は必ず輝く人生に用いてくださいます。
 (参考聖書箇所:マタイ22章37〜39節他)
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 『み心はどこに?』

2017/09/17 12:00
2017年9月17日主の日礼拝式メッセージ要約
聖書    サムエル記下第16章15〜23節   
メッセージ    『み心はどこに?』   
メッセンジャー   田中文人牧師

 1.歴史を動かしておられる主:英語で歴史はhistory(ヒストリー)です。これは、His story(彼の物語り)で、His(彼)は、神様を意味しているといわれています。歴史は人がつくっている様に思いますが、実は、神様ご自身が人間の只中に介入され、動かし、導いておられるのです。
 ですが、「それならば、なぜ…の様なことが起こるのか…?」と言いたくなるかも知れません。実際、その様に問いたくなる様なことが私たちのまわりでは多く起きています。その様な出来事の中に、神様はおられないのでしょうか?
 2.スパイになったフシャイ:ダビデの助言者だったフシャイは、ダビデからアブサロムの助言者になり、スパイの役をする様に使命を受けました。そこでアブサロムに会うと「王様バンザイ!」ト言いました。はじめのうちアブサロムは警戒していましたが、彼が「それでは、わたしは誰に仕えればよいのでしょう。御子息以外にありえましょうか。」とまで言うので、助言者の一人に受け入れました。このように、アブサロムが比較的簡単に前王の側近だったフシャイを受け入れたところにも、神様の介入と働きがあったことがわかります。
 3.アヒトフェルの助言:一方、アヒトフェルがアブサロムに助言したところにも神様は働いておられました。彼は、ダビデがエルサレムに残していった10人の側女たちと関係をもつように提案しました。こうすることで、ダビデとアブサロムの間に、決定的な溝をつくることになるからです。そして、民はダビデではなくアブサロムの方に従う様になるというのでした。アヒトフェルの助言は神託の様にダビデにもアブサロムにも受け取られていましたから、この助言も受け入れられ、ただちに天幕が張られ、アブサロムはダビデの側女たちと関係をもちました。
 4.主の御心:ダビデにとって、息子のアブサロムが勝手に王位を奪い、そのうえ自分の傍女たちとも関係をもったことは、「最悪」としかいえない出来事でした。神様の御心はどこにあったといえるのでしょうか?
 ひとつは、ダビデにとっては、自分の罪の刈り取りだったといえます。アヒトフェルの助言により、以前預言者ナタンを通してダビデに告げられていた御言葉がここで実現したことがわかります(サムエル記下12章12節参照)。
 もうひとつは、アブサロムが神様から立てられた王ではないことがはっきりしたことです。人の考えではアヒフォテルの助言は賢く思えます。ですが、旧約の律法に照らすならば、父の妻たちと通じることは、大きな罪であり、その様な者に祝福は与えられません(創世49章4節、レビ18章8節、参照)。つまり、神様はアブサロムが父の側女たちと通じたことにより、アブサロムをイスラエルの王座から完全に退けられたのです。
 5.まとめ:私たちの生活の中にも神様は生きて働いておられます。ダビデがアブサロムに逆襲等せず、示された罪を悔い改め、御心を尋ねたように、私たちも「人が悪い、社会が悪い」とばかり言うのでなく、自らを聖書の原則に照らすところからはじめたいものです。そして示された罪は、すぐに認め、キリストの十字架の血による赦しを願い出、悔い改めましょう。どの様な的外れでも全部赦していただけます。その様な歩みを願い出る者を神様は大きく祝福してくださいます。
 (参考聖書箇所:創世49章4節、レビ18章8節、Uサムエル12章11〜12節、マタイ26章25節)
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「ここに愛がある」

2017/09/12 09:51
2017年9月10日主の日礼拝メッセージ要約
聖書       ヨハネによる福音書3章16〜17節
メッセージ   「ここに愛がある」
メッセンジャ−  加来国生牧師
          (筑紫野二日市キリスト教会)

人生には、3つの坂(さか)があると言います。上り坂、下り坂、そして「まさか」です。クリスチャンになったからと言って試練や苦しいことがなくなるわけではありません。
【一か月の間に3つの出来事が重なった】
19年前(1998年)の12月に私にとって自分の力では超えられそうにない出来事が3つ同時進行で起きました。1つは、勤めていた会社が、不良債権を抱え、突然解散し、仕事がなくなり、収入が途絶えました。2つ目、収入が無い中、次女がまもなく生まれる月でした。3つ目は、大好きな父親に末期がんが宣告され、余命あと半年と告げられたことです。祈らざるを得ない状況の中、祈りましたが現実は辛いことばかりでした。
【張り詰めた緊張感から、別の方向へ】
既に母をなくしている私にとって、父が死んでからというもの、孤独と不安に襲われました。それは、私が生まれてから、これまでを点ではなく、線で知っている人は、もうこの世の中に誰もいない、という孤独感です。私はもう、自分自身をコントロールできなくなってしまいました。
【一冊の聖書から希望が与えられた】
そのような状態の時、普段は、そんなことはしないのですが、ある日、どうしてそうしたのか分かりませんが、薄いこの新約聖書をカバンに入れて通勤し始めました。
通勤時間片道1時間半、往復3時間、聖書を開き始めました。生きる気力がありませんから、目に力も入りません。そうこうしている内に半年間過ぎました。さすがに、3時間、半年も同じ聖書を読み続けていると何が書いてあるのか、大筋で分かるようになってきました。それは、「イエスさまが、私が死んだのだからあなたは生きなさい」「生きよ」と言っておられるように思えるようになったのです。神さまは愛して下さるお方です。死にかかっている私の代わりに救い主イエスさまは十字架について命をかけてまで、私を生かして下さったと知りました。この世に、私を愛してくれるお方がまだいると分かると途端に嬉しくなりました。
神様は、「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」(イザヤ書43:4新改訳)。今までは一人孤独と思えていたことが、実はそうではなく、私を認め、受け入れて下さるお方が少なくとも、もう一人いると思えるようになって、とても嬉しくなり孤独から解放されました。まだ私を愛してくれるお方がいると分かったとき、飛び上りたくなるほど嬉しくなりました。自分の力ではダメ、無理、限界だったのですが、自分以外の何らかの特別な大きな力が及んだ、としか考えられないのです。すべてを失ってしまったと思ったとき、初めて神さまの恵みが私の中にどんどん流れ込み始めました。聖書のことばは、私たちの心に平安を与えてくれます。
【絶望から希望へ、生きる喜びが与えられた】
私は、聖書の言葉、聖書に記されている希望によって一命を取り留めました。聖書の言葉から、神さまを信じることによって、生き延びる命の喜びを体験しました。聖書に書かれている言葉、神の内にいつもいると言う人は、イエスが歩まれたように自らも歩まなければなりません。(ヨハネの手紙T 2:4-6)「新共同訳」によって進む道が与えられました。
【まとめ】
私は、三つの同時進行の事件でわたしの人生は、もう終わりかもしれないと思いました。何で自分の周りにこんなことが起きるのか、よりによって重なって、1つでも大きい問題なのに何故、何故、と。ところが、もしかしたら、神さまの愛を知るという目的を備えて下さっていたのかもしれません。私だけに起きることではありません。神さまはその人その人に出会い招いて下さり愛を示してくださいます。
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『最悪の時にも御手の業を認めていたダビデ』

2017/09/03 12:00
2017年9月3日主の日礼拝式メッセージ要約
聖書   サムエル記下第16章1〜14節
メッセージ 『最悪の時にも
          御手の業を認めていたダビデ』   
メッセンジャー 田中文人牧師

 どの様な状況にいるとき、「最悪だ…!」と感じるでしょうか?予期せぬ災害にみまわれる時には、そう感じることでしょう?侮辱されるときにも同じように感じることがあります。特に、心当たりがなく、謂れのない侮辱を受けるときは、「最悪!」としか思えないことでしょう。その様なとき、私たちは何をするでしょうか?今日の聖書箇所に記されているダビデの様な対応が出来るならば、信仰による歩みと言えます。
 1.不十分だったダビデ:とはいっても、ダビデも罪人の一人に過ぎません。息子のアブサロムに謀反を起こされ、エルサレムから逃げて行く途中、山頂を少し下ったとき、食料を持って来ていたツィバの出迎えを受けました。すると彼は、ダビデが手厚い待遇を与えていたメフィボシェトがこの混乱している時に、王権をサウル家に取り戻すと言っているとダビデに告げました(3節)。後にダビデがエルサレムに戻った時、このフィバの言い分は事実とは違うことが明らかになります。ですが、この時のダビデには、それを見抜けませんでした。ツィバが食料を持って来てくれたことで、少し気が緩んだのかも知れません。いずれにしても、信仰の人ダビデも不十分でした。
 2.裁きを主に委ねたダビデ:一方、その後出会ったシムイにダビデは、天国の原則に沿う対応を取りました。ダビデたちがバフリムに差し掛かったとき、サウル家のシムイが出て来て、ダビデたちと一定の距離を取り、反対側の山腹を平行して歩きながら、呪い出したのです。そのうえ石や塵も投げつけて来ました。ダビデの周りには、一緒に逃げていた部下が大勢いましたから、シムイ一人に逆襲することは十分可能でした。ついに、ツェルヤの息子のアビシャイが「シムイの首を切り落としてやります。」(9節)と申し出ました。ところがダビデは、ダビデ自身の罪のためにこの様な目に会っているのであれば、主がシムイの背後におられ、彼に呪わせておられることになる、と答え、アビシャイの申し出を許しませんでした。
 また、シムイが呪って言ったことの中には、事実とは異なる内容もありました。それでもダビデは、言い返すことも、弁明することもせず、呪われるままに任せました。あのバト・シェバとの姦淫に始まるいくつもの罪の刈り取りをしていると受け止めていたと思われます。悔い改めると共に、シムイへの裁きを生きて働いておられる主に委ねる行動を取ったといえます。ここに、最悪の状況の中で神様の御手の業を認めていたダビデの信仰による歩みが現わされています。
 3.敵にも愛の業を:イエスさまは、「悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。」と教えられました。逆襲や報復に出るのでなく、むしろ愛の業をするように、それが天国の原則です。私たちが最悪の状況の中でも主の働きを認め、愛の業に用いられるとするならば、すべては聖霊がしてくださる御業です。私たちの努力で出来ることではありません。十字架の血による罪の赦しを心から感謝し、今週も聖霊に満たされ、導きに従う歩みを願い出ましょう。何事もない時に御言葉に繋がり続け、聖霊の導きを祈ることが大切です。
 (参考聖書箇所:マタイ5章39節、ヨハネ18章42節、ローマ12章18〜21節)
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『世にあって星のように輝いて生きていきましょう』

2017/08/27 12:00
2017年8月27日主の日礼拝式メッセージ要約
聖書   フィリピの信徒への手紙第2章12〜18節 
メッセージ 『世にあって星のように輝いて生きていきましょう』
メッセンジャー 田中文人牧師

 1.クリスチャンはこの世で輝いて生きる人たち:キリストを信じているクリスチャンは、この世に遣わされています。この世は残念ながら、初めの人アダム以来神様の言うことを聞かず、自分勝手に生きるようになってしまいました。このことが、創造主からは、「的を外した生き方=罪」とみなされます。罪の中で生きている間、神様との交わりはありません。
 ですが、神様はそこから救い出し、神様との交わりに回復を与えてくださる道を開いてくださいました。それが、イエス・キリストです。このキリストを「私の救い主」と受け入れ信じた人たちがキリスト信仰者です。十字架の血による罪の赦しをいただき、キリストの復活を事実と信じ、永遠の命の約束に与った人たちです。そして今度は、その主の愛に答えて、少しでもキリストが歩まれたようにこの世で生かされたいと願う者たちが、キリスト信仰者です。
 2.聖句に生かされる人生:キリストによる救いに与ったクリスチャンは、尚、罪の中にあるこの世に遣わされ、輝いて生かされます。それは、聖書の御言葉に魂が養われ、内側が聖霊で満たされる人生です。それだけに留まらず、聖句から知らされた天国の原則をこの世でやってみる歩みです。そこに遣わされるとき、その人は生き生きと輝く毎日を歩ませていただけます。
 3.志をもつこと:上記の様な輝く人生は、願い出ることが大切です。神様は、「あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせて」くださいます(13節)。ですが、私たちが全く願いも望みもしないところにというのではなく、「この世で輝かせてください」と願い出るところに、働きかけ、実現に導いてくださいます。そのためには、やはり聖書から御心を知っていくことが必要です。
 4.救いの達成のために従順であること:具体的には、「自分の救いを達成するように」(12節)です。「自分の」は、個人ではなく、フィリピ教会全体の「群」のことを指しています。群全体がキリストに似るところに近か付けられるように、パウロは勧めています。そのために、キリストに「従順」であることが必要です。そこからキリストにあって群(教会)は、一致に導かれます。
 5.不平や理屈を言わず行なうこと:「不平」は、教会の中で人の噂話等をすることです。「理屈」は、教会の中で信頼関係がないことを意味しています。信頼し合えないところから理屈も出て来ると言えます。
 教会の中で、この世と同じことを話題にする時は、井戸端会議で終わらない様に心がけましょう。聖書の規準に照らしてそのことを捕え、祈る交わりを目指したいものです。そこが、教会とこの世の交わりが違うところです。そこからこの世に遣わされるならば、必ず主の栄光を現わす歩みに神様は遣わして用いてくださいます。
 (参考聖書箇所:創世1章31節、他)
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− タイトルなし −

2017/08/27 12:00
2017年8月20日主の日礼拝式メッセージ要約
聖書    サムエル記下第15章24〜37節
メッセージ   『危機のときにも冷静だったダビデ』   
メッセンジャー  田中文人牧師

 今日のダビデは、大変な危機に直面していながら、実に冷静沈着な歩みをしています。家臣たちに的確な指示も与えています。彼は、人生の土台をどこに据えていたのでしょうか?
 1.目に見えない神様に信頼していたダビデ:ひとつ目の冷静な判断は、ツァドクをはじめ祭司たちが持って来ていた神の箱を都のエルサレムに戻す様に指示したことです。今から三千年前のイスラエルでは、神の箱がある所に主はご臨在されるとされていました。ですが、ダビデは、創造主であられる神様は、目に見える箱のある所にだけ存在されるようなお方ではないことをしっかり弁えていました。そこで、この箱がなくても、神様が祝福されるのであれば、確実に祝福は与えられると心から信じていました。
 2.情報収集に努めたダビデ:これからアブサロムがエルサレムでどの様なことをしようとするのか、その確実な情報を得ることは、ダビデたちにとって大変重要でした。そこで、神の箱を返すだけでなく、祭司たちも都に戻し、アブサロムの動きをダビデに伝えるように指示しました。
 3.泣きながら祈ったダビデ:そして何よりダビデは、オリーブ山の坂を登りながら祈りました。冷静沈着な判断を下し、指示を出していたダビデも、息子アブサロムから謀反を起こされたことに、大変なショックを受けていました。その大元の原因は自分が犯した罪(バト・シェバとの姦淫他)にあることを思い返し、悔い改めながら、とにかく「主よ!」と祈ったのです。また、自分からアブサロムの方に離れていったアヒトフェルの助言が愚かなものになるようにとも祈りました。これは、アヒトフェルを呪ったのではなく、彼の裁きを主に委ねる祈りでした。
 4.祈りの答え:この祈りに早速主は答えてくださいました。ダビデたちが主を礼拝する場所に着くと、アルキ人フシャイが彼らを迎えました。そこでダビデは、老年のフシャイにスパイの役を任じ、エルサレムに行き、アブサロムに仕えるように命じました。この後、フシャイもアブサロムに助言することになり、アヒトフェルの助言が実際に愚なものにされていくことになります。
 5.土台をキリストに据えて:ダビデが上記の通り冷静沈着な判断と行動がとれたのは、目には見えませんが、生きて働き、すべてをご存じの主に心から信頼していたからといえます。
 いまの私たちにとっては、イエス・キリストが人生の土台です。「誤りなき神の言葉」である聖書の御言葉を土台に据え、与えられる聖句を日常生活の中で行なえるよう願い出ましょう。実際に行なわせてくださるのは、聖霊なる神様です。
 平穏無事なときに、日々御言葉に養われ、礼拝することが、「いざ!」というとき、咄嗟の判断と行動に現われます。今週も聖霊の導きに委ね、御言葉を実現する歩みに遣わされましょう。

 (参考聖書箇所:詩編1編、マタイ7章24〜27節、ヨハネ3章8節)
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『ひたすらキリストの福音にふさわしい生活をV互いに心がけたいこと』   

2017/08/13 20:00
2017年8月13日 主の日礼拝式メッセージ要約
聖書   フィリピの信徒への手紙第2章1〜11節 
メッセージ 『ひたすらキリストの福音にふさわしい生活をV 
                = 互いに心がけたいこと』   
メッセンジャー 田中文人牧師

 キリスト教会は、神様から呼び集められた者たちの群です。いうまでもなく、その神様、救い主イエス・キリストを聖霊の導きによって礼拝するために集められています。礼拝では、創造主の前でその主を讃美し、祈ります。聖書の御言葉から慰め、励まし、戒めを受け、1週間の生活に遣わされます。キリスト教会には、多くの奉仕があります。そのために互いに仕え合います。この様にして、ひとりひとりはキリストを頭に、その体である教会に連なり、ひとつにされていきます。
 今日聞き取りたいことは、どの様な思いで互いに仕えあうならば、一致した群の歩み、ひとつの群の歩みになっていくのかについてです。

 1.パウロの心配:フィリピの教会は、健全な群でした。ですが、地上の教会で完全な群はありません。健全と思われる群にも、どこか課題はあり、その解決のために祈り合っています。
 フィリピ教会にあった課題は、今日の2章には記されていませんが、どうやらエボディアとシンティケ、二人の婦人たちのことだったようです(フィリピ4章2節参照)。彼女たちは、フィリピ教会で大切な奉仕を担っていました。ところが、いつしか、自分のための奉仕になっていた様です。二人同士で競い合う様なこともしていたのかも知れません。いくら大切な働きを担い、大きな奉仕に用いられていたとしても、その様になっていくと、いつしか教会の群全体が一致出来なくなっていきます。

 2.パウロの勧め:そこでパウロは次の様に勧めます。「何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。」(3〜4節参照)。「利己心」は、自己中心です。神様の前に謙遜になり、救いの恵みにあずかった感謝と喜びで奉仕する様に。他の人たちを尊敬し、配慮し合い仕え合う様に。そこを外さないならば、霊の一致に導かれます。フィリピ教会がそこを目指していることが、ローマで軟禁状態に置かれていたパウロにとって、さらに喜びになると記しています。

 3.キリストを見上げて:ですが、現代の教会でも「なかなか実際の歩みは…。」と言いたくなるかも知れません。そこでいつも見上げていたいところが、救い主イエス・キリストです(6〜11節)。
 イエスさまは、初めから神様(創造主)と共におられ、創造の御業にも関わられました。ですが、その身分に拘わらず、人の姿でこの世に来てくださいました。これだけでも十分過ぎますが、人を救うために十字架の死まで遂げてくださいました。そのキリストを神様は天に引き上げられました。いまキリスト教会では、このキリストを礼拝し、讃美しています。
 このキリストのことをいつも思いながら、今週も心からの礼拝を献げ、仕え合いましょう。そして、主の栄光を現す一週間の歩みに遣わされましょう。

 (参考聖書箇所:コロサイ1章15節、エフェソ5章21節)
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『自分のための謀反と民のための都逃れ』

2017/08/06 12:00
2017年8月6日主の日礼拝式メッセージ要約
聖書    サムエル記下第15章1〜23節  司式者
メッセージ   『自分のための謀反と民のための都逃れ』
メッセンジャー  田中文人牧師

 今日の聖書箇所には、王位に就く野望を実現するために父親でもあるダビデ王に謀反を起したアブサロムのことと、国民の命を最優先するために、一旦、都を明け渡したダビデの様子が記されています。
 1.謀反の準備:アブサロムは、4年かけて周到に謀反の準備をしていきました。ひとつが、自分に力があることを国民に印象付けるために、軍馬と戦車、それに50名の兵を整えたことです。もうひとつが、国民の心をダビデから自分の方に向けさせ、盗み取ったことです。
 そして4年が過ぎた時、アブサロムは父ダビデ王にヘブロンに行き、誓願を果すために礼拝を献げさせてほしいと申し出ました。初めからヘブロンで自分が王になったことを宣言しようとしていましたから、これは、礼拝を自分の野望を実現するために利用したことになります。何より、主の名をみだりに唱えることであり、モーセの十戒の第三戒に明らかに反することでした。 一方のダビデは、全く無警戒でした。すぐにヘブロンに行く許可を出し、祝福までして送り出したのです。
 2.謀反の実行:すべて自分の計画通りに進めて行ったアブサロムは、200人の者たちを連れてヘブロンに下りました。そのうえ、ダビデ王の家臣のひとりだったアヒトフェルを招き、自分の側に付け、陰謀を固めていきました。この様にして、遂にアブサロムは、角笛を吹いて、イスラエルの王になったことを宣言したのです。
 3.ダビデ王の対応:この謀反を知ったダビデは、すぐに都であるエルサレムから出て行くことを決めました。あまりにも諦めるのが早い様に思いますが、ここにダビデの信仰による選び取りが表わされています。
 ダビデの決断の基準は、イスラエルの民を戦争に巻き込みたくないということでした。息子と一戦を交えたくないという思いもありましたが、それ以上に国民の命を守ることを第一にするならば、王のプライドを捨てることも、杉材でつくった高級な家を手離すことも出来たのです。
 この様に潔い決断が出来たのは、すべてを導いてくださる主にダビデが信仰によって信頼していたからと言えます。御心であるならば、また都に帰り、王座に戻してくださると確信していましたから、10人の側女もエルサレムに残したままにしておきました。
 4.都を逃れた結果:信仰による決断をしたダビデに神様はいくつもの恵みをあらわしてくださいました。ひとつが、彼に冷静な判断力を与えたことです。エルサレムを出ると離宮で立ち止り、みかたが何人いるのかを数えました。ふたつ目に、ダビデに従った者たちの中に、ガド人イタイがいたことです。彼は一日前にガドから亡命して来たばかりでしたから、ダビデは彼にも配慮を示し、エルサレムに戻ってアブサロムに仕えることを勧めました。ですが、イタイはどこまでもダビデに仕える意志をはっきり伝えました。イタイには600人もの部下がいましたから、ダビデにとって大きな励ましになったことは間違いありません。
 私たちが生きる目的は、自分の野望実現ではなく、「主の栄光をあらわすため」です。そのために、神様第一、隣人をその次、そして自分は最後にする歩みを願い出ましょう。そこに主は大きな祝福を用意しておられます。

(参考聖書箇所:Tコリント10章31節)
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『優柔不断だったダビデ』 

2017/07/30 18:00
2017年7月30日主の日礼拝式メッセージ要約
聖書    サムエル記下第14章1〜33節 
メッセージ    『優柔不断だったダビデ』   
メッセンジャー   田中文人牧師

 自分の判断に、優柔不断なところはあるでしょうか?もしあるとしたら、どの様なことに対してでしょうか?人生で優柔不断だったために大失敗することがあるとすれば、それは何でしょうか?逆に、どの様な時に、優柔不断ではなく、新しい歩みの決断をする必要があるでしょうか?

 1.テコアの女性の例え話し:兄アムノンを殺害した後アブサロムは、母の故郷ゲシュルの国に逃げましたが、そのまま三年が過ぎました。このままでは事が前に進まないと思ったダビデの家臣、将軍のヨアブは、知恵のあるテコアの女性を呼び寄せます。変装して、自分の身に振りかかっている問題を解決してもらうふりをして、ダビデ王に問題の相談するよう頼みました。この女性は、「自分の二人の息子が喧嘩をし、一人がもう一人を殺してしまったが、親類がその殺した息子も命の償いのために生かしておくわけにはいかない、殺して跡継ぎも残さないようにすると言って来ている」という話しをしました。ダビデは、この話しを聞き、「お前にあれこれ言う者がいたら、わたしのもとに連れて来なさい。その者がお前を煩わすことは二度とない。」と約束しました。
 2.テコアの女性の勧め:そこでテコアのこの女性は、ようやく本題に入りました。つまり、いま自分に約束したことを王自身が行なうとするならば、亡命中のアブサロムをエルサレムに戻す様にとの勧めです。これを聞いたダビデは、ヨアブが背後で動いていることを見抜きました。その場にヨアブもいましたから、ダビデはすぐにアブサロムをエルサレムに戻してよいと命じました。しかし、自分の家に向かわせ、父ダビデ王の前に出ることは許しませんでした。
 3.切れたアブサロム:ところが、そのまま二年が過ぎました。アブサロムは、父ダビデ王の前に出られるようにヨアブに取り計らってもらおうとして、二度遣いをやりましたが、ヨアブは来ませんでした。そこでアブサロムは隣にあったヨアブの大麦畑に火をつけるよう、部下に命じました。さすがのヨアブもこの時ばかりは飛んで来ました。この様にしてヨアブの仲介により、アブサロムはようやく父の前に出る許可を得ました。ダビデ王も中東の挨拶である口づけをし、表面的には和解しました。
 4.ダビデの優柔不断さ:ダビデは、1)アブサロムをゲシュルに逃亡させたままにしておいた点で、2)エルサレムの家には戻る許可を与えたが、その後さらに2年間そのままにしておいた点で、優柔不断でした。これは、アブサロムの罪を放っておき、しっかり対応しなかったことになります。
 5.優柔不断ではいけないこと:私たちの、放っておいてはならないことが、罪です。「罪が支払う報酬は死です。」(ローマ6章23節)天国の原則から逸れていることに気付いた時は、すぐに悔い改めましょう。どの様な的外れでも、イエスさまの十字架の血による赦しが与えられ、神様は天国に喜んで迎え入れてくださいます。「神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです。」(ローマ6章23節)
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『ひたすらキリストの福音に相応しい生活を2=内からの苦しみの中で喜ぶ』 

2017/07/23 12:00
2017年7月23日
主の日礼拝式メッセージ要約
聖書    フィリピの信徒への手紙第1章20〜30節
メッセージ   『ひたすらキリストの福音に相応しい生活を 2
        = 内からの苦しみの中で喜ぶ』 
メッセンジャー  田中文人牧師

 ローマの軟禁状態の中でパウロは、外と自分の内側両方からの苦しみを体験していました。ですが、それらの苦しみの中で彼は心から喜んでおり、そのことをフィリピの信徒たちに書き送っています。今日は、パウロの内側からの苦しみとその中でも喜びに満たされていた様子を読み取ります。

 1.内側の葛藤:パウロにとっては、「生きるとはキリストであり、死ぬことは利益」でした(21節)。それは、復活されたキリストと出会った時から、パウロはもはや自分のためにではなく、何をするにしてもキリストのため、救い主のみが、あがめられるために生きるように変えられていたからです。ですから、パウロは、この世に生き続けることには執着していませんでした。むしろ、この世を去って早くキリストのもとに行く方を望んでいました。ですが、もう一度フィリピを訪ね、キリストにある恵みを分かち合えるならば、フィリピの信徒たちにとっては、なお喜ばしいことでした。そこで、パウロ自身、生きるのか死ぬのかどちらを望むのがよいのか、その両方の間で葛藤していたといえます。

 2.葛藤の理由:パウロ自身は既に生きるにしても死ぬにしても、とにかくキリストがあがめられるのであれば、「それでよし」という思いに至っていました。「あがめられる」こととは、キリストがどこまでも大きくされ、パウロは小さくされることです。ですが、パウロはフィリピの信徒たちのためには、なお肉に留まることの方がより望ましい(24節)と思っていました。この様にパウロは自分ではなくフィリピの信徒たちのことを思うとき、葛藤を覚えていたといえます。やはり、神様を第一に、隣人をその次にするところに歩んでいた信仰者の姿といえます。
 それでも、パウロといえども一人の弱い罪人に過ぎません。22〜23節の原文の文体は乱れていると言われます。ローマ皇帝から死刑の判決を受けるかも知れないことを予想するとき、パウロも動揺したことが読み取れます。それでもキリストがあがめられるところに立ち続け、フィリピの信徒たちにとって最善を願い出たとき、死とこの葛藤に解決が与えられていきました。

 3.霊の一致を願い出て:私たちは何のために生きているでしょうか?また、死には解決が与えられているでしょうか?「死ぬ準備ができていないなら、生きる準備もできていない」ことになります(『ディボーショナル聖書忠解』より)。
 私たちも何をするにしてもキリストがあがめられることを人生の土台に据えましょう。また、聖霊による信仰の友との一致を目指しましょう。パウロは、フィリピの信徒たちと距離は遠く離れていましたが、霊ではひとつになっていました。この霊の一致が与えられるとき、私たちも外側内側で労苦していたとしても喜びに満たされて歩み続けるところに導かれます。

 (参考聖書箇所:ガラテヤ2章20節)
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『罪の結果』

2017/07/16 12:00
2017年7月16日主の日礼拝式メッセージ要約
聖書    サムエル記下第13章23〜39節 
メッセージ   『罪の結果』   
メッセンジャー  田中文人牧師

 今日の聖書箇所には、アブサロムが、妹タマルを辱められたことへの復讐をアムノンに果したことが書いてあります。ですが、ことは単純ではありませんでした。アブサロムはアムノンを従者に命じて殺害しましたが、それは、王位継承権が上位だった兄を亡きものにし、自分がその権利を奪う野望も絡んでいたのです。
 1.アブサロムの懇願:アムノンがタマルを辱めた大事件から2年後、アブサロムは羊の毛を刈る祝宴を開きました。そこへ、父ダビデも兄たちと一緒に出席してくれるように強く招きました。ですがダビデは、自分たちが出席するならば、息子アブサロムに様々な面で負担をかけることになると考え、断り、祝福だけしました。
 アブサロムは、父からこの様に断わられることは十分予想していた様です。そこで次に彼は、兄アムノンを他の兄弟たちと一緒に父の代りに来てくれるようにと、やはり強く招きました。この招きもダビデは、はじめのうちは渋っていましたが、ついに受け入れ、王子たちをアムノンと一緒に送り出しました。
 2.アムノンの殺害:計略はすべてアブサロムの思い通りに進みました。彼はアムノンが酒に酔って上機嫌の時に、従者たちに命じて打たせました。他の王子たちは、自分も殺されるのではと思い、急いでそれぞれのらばに乗り、エルサレムに逃げ帰りました。
 ダビデのところには、いち早く伝令が向かいましたが、王子全員がアブサロムに殺されたと、事実とは異なる情報が伝わりました。それを聞いていたヨナダブが、殺されたのはアムノンだけであること、アブサロムは2年前からこのことを計画し、時をうかがっていたことをダビデに説明しました。その直後、彼が告げた通り、他の王子たちがらばに乗って逃げ帰って来ました。
 3悲劇の原因:一つは、アブサロムの罪です。いくらアムノンへの憎しみが消えないといっても、聖書の原則は、「復讐してはならない。」(レビ19章18節)であり、「わたし(神)が報復し、報いをする」(申命32章35節)です。そのうえ王位継承権を奪う野望を果すための殺害でしたから、この罪は大変大きかったことになります。
 二つ目は、アムノンの罪です。タマルを傷つけ、兄弟の関係にもひびを入れたのですから、アムノンはイスラエルで最も愚かなことをしたことになります。
 三つ目はダビデです。これら家庭内騒動の大元の原因は、彼がバト・シェバとの間に犯した罪でした。アブサロムによるアムノン殺しも、「剣はとこしえにあなたの家から去らないであろう。」(サムエル下12章10節)とナタンの預言が実現したことと言えます。
 4.キリストの十字架の血による罪の赦し:この様に人が欲のままに振舞うならば、その行き着くところは「死」です。この死から買い戻してくださるためにイエスさまは十字架で死んでくださり、三日目に復活されました。私たちの内側にも憎悪や野望ほか様々な思いがあります。それを放っておくならば、行き着くところは、永遠に神様がおられない魂の「滅び」です。感謝のうちに救い主イエス・キリストを信じて罪の赦しをいただき、永遠の死から救われ、永遠の命に与りましょう。

 (参考聖書箇所:レビ19章18節、申命32章35節、ローマ6章17〜23節、〃12章19節)
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 『ひたすらキリストの福音に相応しい生活を1 = 外からの苦しみの中で喜ぶ』 

2017/07/09 18:29
2017年7月9日主の日礼拝式メッセージ要約
聖書   フィリピの信徒への手紙第1章12〜30節 
メッセージ  『ひたすらキリストの福音に相応しい生活を1 
       = 外からの苦しみの中で喜ぶ』 
メッセンジャー  田中文人牧師

「喜び」は、この手紙の特徴であり、キリスト信仰そのものの特徴です。ところが、今日の29節でパウロは、フィリピの信徒たちに、「あなたがたには、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているのです。」と書き送っています。「キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられている」とはどういうことでしょうか?今日は、パウロが体験していた外からの苦しみ(戦い)を見ながら、その中での喜びを聞き取ります。
 1.軟禁状態に置かれていたパウロ:このときパウロは、ローマで皇帝の裁判を待つ身でした。その間、自費で借りた家で、来客との面会は許されていましたが、外出は出来ず、番兵に監視される軟禁状態に置かれていました。その中でも彼は、落ち込んだり悲観したりすることなく、人々を招いてキリストを伝え、これまで訪ねた町々の教会に手紙を書き送っていました。
 2.パウロの苦しみ:その様なパウロの姿を見て励まされ、愛の動機からキリストを伝える人々もいました。彼らはパウロにとって喜びになり、さらに力付けられたことは間違いありません。
 ところが別のグループもいました。それが、自分の利益から同じキリストを伝える人々でした。「自分の利益」とは、主にではなく、キリストを伝えている自分たちに人々の心を引きつけようとする動機です。そして彼らは、パウロたちの伝道を妨げていました。そこでこの様なグループは、パウロの苦しみになっていました。
 3.パウロの喜び:ですがパウロは、「だが、それがなんであろう。口実であれ、真実であれ、とにかく、キリストが告げ知らされているのですから、わたしはそれを喜んでいます」と書いています。動機はどうであれ、伝えられている内容は、救い主イエス・キリスト=十字架の血による罪の赦しと事実キリストの復活による永遠の命には違いない、その視点で、キリストが伝わり、キリストに栄光が帰されているのだから喜んでおり、これからも喜ぶと自分の心境を書き送っています。
彼はこの喜びに満たされて軟禁状態であっても生き生きと生活していました。それを目の当たりにした番兵の中からもキリストを信じる者たちが何人か起こされました。このことによってもパウロは復活されたキリストが生きて働いておられることを確信し、さらに喜びが増し加えられていきました。
 4.私たちの喜び:現代でも同じキリストが伝えられてはいますが、その動機が違うことを認めざるを得ないこともあります。そのことに気付くとき、私たちも悩み苦しみます。ですが私たちが見極めたいことは、どの様なキリストが伝えられているかです。十字架の血による罪の赦しと復活が歴史の事実であること、救いはそのキリストを信じることにより与えられることが伝えられているならば、動機も含め、細かい点には拘らなくてもよいのではないでしょうか?キリストの福音が広がっていること、救われる魂が加えられていることを喜びたいものです。
(参考聖書箇所:ローマ5章1〜5節)
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『苦難をも喜ぶ』

2017/07/08 08:04
2017年7月2日主の日礼拝式メッセージ要約
聖書     ローマ 第5章1〜5節 
メッセージ   『苦難をも喜ぶ』
メッセンジャー 竹下由美子神学生(なごみグレイスチャーチ)

 おはようございます。九州バプテスト神学校に入学して5年目になります。神様は、色々な方面から私を訓練し、愛のみ手を以って支えてくださっています。神様が今、私に何を教えようとしてくださっているのか?私自身、主に信頼し聖書の御言葉に依り頼み、神様の御旨を求めています。
 さて、現在の世界情勢、政治、経済、社会状況を見て、平和を感じ取られるものがあるでしょうか?戦争と危険が迫ってきている今日、どこを見ても、平和なるものはありません。ローマ5章1〜2節に「このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。」と御言葉は語っています。私達は、自分の力でどれ程、努力しても平和を得ることはできません。イエス・キリストによってのみ与えられる平和です。今、キリストに出会い、十字架に出会い、平和を得ることが出来て、現在の私は、苦難をも受け止めることが出来るように造りかえられました。どこで苦難を受け止めることが出来るのでしょうか?
 私にとっての大きな苦難は、以前お話ししたと思いますが、家が全焼し、何もかも失くした事です。この時、イエス様は、私の全てを御存知であり、全ての必要を満たしてくださることを知ることが出来ました。次に、私にとっての大きな苦難は、約6年前、40年以上在籍していたS教会を脱会したという現実でした。今まで愛着を持って我家のように過ごしてきた教会を出るということは、本当に悲しい苦しいことでした。いろんな事があり、大きなハードルを乗り越えねばなりませんでした。しかし、神様の助けによって、一つ一つクリアーすることが出来ました。そして今、苦難と忍耐の中から勝ち得ることができた「キリストにある教会」を主が与えてくださったことを深く感謝しています。
 ローマ5章3〜5節に「わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。」とあります。キリストによって、神との間に平和を与えてくださる方は、私達、求める一人一人に希望を与えてくださり、決して欺かれないことを知り感謝します。苦難の中から喜びと希望を与えてくださる神様、物事全てを良きにしてくださる主に感謝し、神様との平和の中に身をゆだねる者となりたいと思います。

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『欲望に負けたアムノン』

2017/07/07 08:00
2017年6月25日主の日礼拝式メッセージ要約
聖書     サムエル記下第13章1〜22節 
メッセージ    『欲望に負けたアムノン』
メッセンジャー   田中文人牧師

 課題に直面したり、失敗したりする時、その原因を追究します。同じ失敗を繰り返さないためにも、原因の究明は大切です。
 私たちは、その原因を「何のため」としているでしょうか?とかく、社会や組織の有り方、状況のせいにして、そこで留まることが多いのではないでしょうか?確かに組織の構造を変えたり、仕事の流れを見直したりすることによって解決する課題もあります。状況が変われば課題もなくなることもあります。ですが、根本の原因はもっと人の奥底にあるのではないでしょうか?
 1.ダビデ家に起きた事件:ダビデ王には何人もの妻がおり、それらの妻たちから多くの子どもが生まれました。アムノンとタマルも異母兄弟でした。そのアムノンがタマルに恋心を抱きましたが、異母とはいっても兄妹ですから、アムノンは結婚出来ないと思い、次第に元気を無くしていきました。
 この様子を見た従兄弟のヨナダブが、アムノンに入れ知恵をしました。それを受け入れたアムノンは、父ダビデが見舞いに来た時、妹タマルがつくったレビボット(心[ハート]という意味の菓子)を彼女の手から食べたいと申し出ました。ダビデは何も疑わず、この要求を受け入れ、早速タマルをアムノンの家に送りました。
 アムノンにとって事はすべて策略通りに進み、寝室でタマルとふたりだけになったところで、彼女を捕えました。タマルは、アムノンがしようとしていることは、イスラエルでは最も愚かなことであることを話し、思い留まって父ダビデに自分を妻に迎えたいことを話すように必死で説得しました。しかしアムノンはタマルが言うことには全く耳を貸そうとはせず、力ずくで辱めたのです。ところが欲望を果してしまうとアムノンの思いは冷めてしまいました。恋心以上に憎しみを抱いたアムノンは、タマルを強引に追い出したのです。
 このことを知ったダビデは、激怒はしたものの、アムノンには何も言わず、とがめることもしませんでした。一方タマルと同じ母の子であるアブサロムは、この時からアムノンを殺す機会をうかがうようになりました。そして大きな傷を受けたタマルは、このアブサロムの家でひっそりと暮すことになったのです。
 2.事件の原因:この事件の原因は、人の欲望にあったと言えます。ひとつは、何といってもアムノンの欲望です。彼は心からタマルを愛していたのではなく、一時的な欲望にかられていたとしか思えません。そこにヨナダブの入れ知恵があり、それを受け入れ、そのまま行動に移しました。また、父ダビデが犯したあのバト・シェバとの姦淫の罪も影響していたことも否定出来ません。ですからダビデは、アムノンに何も言えず、叱ることさえ出来なかったのです。
 3.欲望に負けないために:私たちも欲望のままに生きるように誘惑する力にさらされています。私たちには、その力に打ち勝つ力は全くありません。ですが、あらゆる誘惑に打ち勝たれたお方が、ただひとり、イエス・キリスト救い主です。聖書の御言葉を通してイエスさまはいつも共にいてくださいます。御言葉から主に喜ばれる神の国の原則を聞き取り、そこに少しでも近付けられるよう、今週も聖霊の助けを願いましょう。
 (参考聖書箇所:マルコ14章39節、ヤコブ1章13〜15節)
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『パウロの喜び』

2017/07/07 07:58
22017年6月18日主の日礼拝式メッセージ要約
聖書    フィリピの信徒への手紙第1章1〜11節 
メッセージ   『パウロの喜び』
メッセンジャー  田中文人牧師
 1.「父の日」に当たって:今日は「父の日」です。「父の日」も「母の日」同様キリスト教会から始まりました。有明教会でも壮年の祝福祈祷をいたします。壮年を遣わしてくださっている父なる神様と壮年ひとりひとり、それぞれの父に感謝しましょう。
 2.フィリピの信徒への手紙について:今日から新約聖書は、『フィリピの信徒への手紙』を読み始めます。フィリピは、いまから2000年前、ローマ帝国の北の方マケドニア州にあり、パウロとテモテたちによってヨーロッパで初めてキリストの福音が伝わった町です。その町にパウロは、ローマで裁判を待っている間、監視つきで軟禁状態に置かれた中でこの手紙を書き送りました。
 ところが、この書の特徴は、「喜び」です。パウロ自身キリスト信仰の喜びに満たされていました。これから先、どのような判決を言い渡されるのかわからない中で、彼はどの様に喜び、キリストと共に歩んでいたのでしょうか?そこからフィリピの信徒たちにどの様な勧めをしているでしょうか?それらのここを全4章から聞き取ります。
 3.最初の日から今日まで、福音にあずかっていた信徒たち(5〜8節:パウロの喜びのひとつは、フィリピの信徒たちが、イエス・キリストの十字架の血による罪の赦しをしっかり受け、キリストの死者の中からの復活を歴史の事実とするキリスト信仰に立ち続けていたことです。さらに、そこに留まるのでなく、同じキリストの福音を伝え続けていたことです。パウロはその様な彼らがローマとフィリピとで場所は離れていても、共に伝道し、支え会い励まし会っていることを神様に感謝する祈りをしています。その度に、パウロ自身喜びに満たされていたと書き送っています。
 私たちの喜びは何でしょうか?クリスチャンたちが健善な信仰に立ち、伝道に用いられていることを主に感謝する祈りをする中で、喜びに満たされたいものです。
 4.パウロの願い(9〜11節):続けてパウロは、フィリピの信徒たちが知る力と見抜く力とをますます信に着けて、本当に充要なことを見分けられるようにと祈っています。「知る力」は、聖書から救い主イエス・キリストのことを少しでも正しく知るための力です。「見抜く力」は、異端等、違う教えや信仰に惑わされないためのあらゆる力です。紀元60年頃には既に救い主について違うことを伝える者たちが現われていました。ローマ帝国内ではクリスチャンへの迫害も始まっていました。時代を見る目も含め、知恵にと霊によって見抜く力が必要とされていました。
 私たちも、ますます聖書からキリストのことを知る力が与えられるように、自分のことだけでなく、とりなしの祈りをいたしましょう。日本もこれからどの様に動くかわからなくなって来ています。その点でも、聖書に照して時代を見る目も与えられるようにも祈る必要があります。
 そして何よりキリストの愛によって互いに仕え合い、御霊の実を結ぶことを祈りましょう。今週も特に壮年は、それらが与えられながら、主の栄光を現わす働きに遣わされてまいりましょう。
              (参考聖書箇所:使徒28章16節、ローマ5章1〜5節)
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 『裁きとあわれみの神』

2017/06/11 17:53
2017年6月11日主の日礼拝式メッセージ要約
聖書    サムエル記下第12章15節後半〜31節 
メッセージ  『裁きとあわれみの神』
メッセンジャー  田中文人牧師

 「旧約聖書に示されている神様は裁きの神」「新約聖書に示されている神様は愛の神」と受け取っているところはないでしょうか?キリスト信仰の神は、ただ一人(唯一様)です。そのご性質は、愛と慈しみであると共に、裁き主でもあられます。つまり旧約聖書にも愛と慈しみのご性質は表わされており、新約聖書にも裁き主のご性質が表わされています。

 1.自らの罪の刈り取りをしたダビデ:預言者ナタンからバト・シェバとの姦淫の罪と、彼女の夫ウリヤを戦死させた罪を指摘されたダビデは、すぐに悔い改めました。神様は、ナタンによって赦しを宣言され、ダビデの罪は赦されました。ですが、その刈り取りは、やはりしなくてはなりませんでした。それが、ふたりの間に生まれた息子の死でした。このことをダビデはどの様に受けとめたでしょうか?

 2.心を注ぎ出して祈ったダビデ:ナタンが告げた通り、息子は瀕死の病に罹りました。この時ダビデは、その子のために断食し、引き籠って七日間、周囲の者たちが心配するほど真剣に祈り続けました。この時ダビデは、ただ息子の癒しを願ったのではありませんでした。いま一度自らの罪を悔い改める中で、心を注ぎ出し、神様と人格で交わったのです。

 3.祈りの結果を受け入れたダビデ:彼の必死の祈りの結果は、ナタンが告げた通り、息子の死でした。ところがダビデは、息子の死を知ると、礼拝をし、着物を着替え、食事を取りました。喪に服すのでなく、日常の生活に戻ったのです。周りの者たちは大変驚きました。彼がこの様に出来たのは、息子の魂は確実に主の御もとで安らいでおり、ダビデもいつか同じところに行き、再会出来るところに希望が与えられていたからです。
 上記2.と3.は、やはり信仰の人ダビデの姿です。私たちも祈る時には、心を注ぎ出し、人格で主と交わりましょう。キリスト信仰の祈りは神様との対話です。その祈りの結果、願った通りにならないこともあります。ですが、それで神様は私たちを見捨てられたのではありません。心から主と交わろうとする者には「万事を益」にしてくださいます(ローマ8章28節)。そこに信頼し、さらに祈りましょう。

 4.主の慈しみ:神様はダビデとバト・シェバの間に、4人の子どもを与えられました。その一人がソロモンです。この息子を主は愛されナタンによってエディドヤ(主に愛された者)とも名付けられました。また、ラバとの戦いの勝利を将軍ヨアブの手柄ではなく、ダビデのものにされました。後継ぎが与えられ、周りの国に勝利したことは、イスラエルの国の王ダビデにとっては、神様からの大きな慈しみであり恵みでした。
 このダビデの家系から救い主イエス・キリストがお生まれになりました。全人類を救う神様のご計画と愛は、人には計り知れません。この愛に感謝して、今週も主の栄光を現わす歩みに遣わされましょう。

 (参考聖書箇所:マタイ18章14節、Tヨハネ1章9節〜2章6節)
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『全く自由に何の妨げもなくローマで伝道したパウロ』

2017/06/04 16:30
2017年6月4日主の日礼拝式メッセージ要約
聖書     使徒言行録(使徒の働き)第28章17〜31節 
メッセージ    『全く自由に何の妨げもなくローマで伝道したパウロ』
メッセンジャー  田中文人牧師

 今日は、今年のペンテコステです。2000年前、約束の聖霊が使徒たちの上に降り、そこから彼らは全世界に遣わされ、イエス・キリストが救い主であられることを伝えていきました。
 ところで、いまの私たちもキリストを「私の救い主」と信じた時から同じ福音を伝える働きに遣わされます。このように聞くと、「いまの私の状況では…」と言いたくなるかも知れません。果たしてそうでしょうか?

 1.パウロの状況:ローマ皇帝に上訴したパウロは、他の囚人たちと一緒にカイサリヤから何カ月もかけ、様々な危険な体験もしながら、主の守りのもと、ローマに到着しました。そして、自費で借りた家に住みながら、裁判を待つことになりました。ですが、その家は番兵の監視付きでした。そのうえ、外出することも許されませんでした。

 2.主だったユダヤ人たちに説明したパウロ:パウロは早速三日目にローマに住んでいた主だったユダヤ人たちを家に招きました。そして、なぜ自分がローマに来ることになったのか、その経緯を説明しました。つまり、ユダヤの習慣や律法に反することも、ローマの法にふれる様なことも何ひとつしていないこと、ローマ人たちは自分を釈放しようとしたが、同邦のユダヤ人たちがそれを許さなかったこと、そのために、上訴し、ここローマに来ていること、イスラエルの民が望みをかけていることを語っているので鎖に繋がれていること…。
 この様に説明したところ、聞いていたユダヤ人たちは、次の様に言いました。エルサレムから手紙も届いていなければ、パウロについて悪い情報も聞いていない、しかし「この分派」(キリスト信仰)についてはいたるところで反対があることを耳にしている、そこでパウロが考えていることを直接聞きたい。

 3.伝道したパウロ:その後ユダヤ人たちは日を決めて今度は大勢でパウロの家にやって来ました。そこでパウロは、旧約聖書に預言されているイエス・キリストはこの世に来られ、十字架で死なれ、全人類を救う御業を実現されたこと、その三日後に死者の中から復活されたこと、このキリストを救い主と信じるだけで誰でも罪の赦しと永遠の命の約束にあずかれることを割り引くことなく伝えました。
 この福音(よき知らせ)を聞いていた人たちの反応は二分され、ある者はキリストを信じ、ある者は信じようとせず、意見は一致しませんでした。そこでパウロはイザヤ書6章の聖句を引きながら、この様な反応も預言通りであること、この神の救いは異邦人に向けられることを告げました。それでも彼らは論じ合いながら帰っていきました。

 パウロは、置かれている状況の中で、最大限出来ることをして伝道しました。私たちも状況や環境に関係なく救い主を伝える働きに用いられます。そこに期待し、ペンテコステの今日からそれぞれの場所に遣わされましょう。

 (参考聖書箇所:イザヤ6章9〜10節、使徒1章8節) 
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