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有明キリスト教会ブログ--今週の聖書の言葉
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日本バプテスト連盟 有明キリスト教会 主日礼拝「宣教」要約
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『主によってしっかりと立ちましょうV感謝をもって祈りと願いを』

2017/12/10 12:30
2017年12月10日
主の日礼拝式メッセージ要約
聖書  フィリピの信徒への手紙第4章6〜7節
メッセージ 『主によってしっかりと立ちましょうV
             感謝をもって祈りと願いを』
メッセンジャー 田中文人牧師

 アドベント(待降節)も2週目になりました。「世の光」(ヨハネ8章12節参照)であられるイエス・キリストのお誕生を心から祝うクリスマスに向け、十分に備えてまいりましょう。
 1.無理難題としか思えない勧め:この手紙の最終章4章でパウロは、「とても無理!」と言いたくなる様な勧めをフィリピの信徒たちに書き送っています。今日の「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい」もそのひとつです。
 「どんなことでも」ですから、フィリピの信徒たちの間で一致出来ない現実があっても(2、3節)です。キリスト信仰に反対する人たちから冷遇されても、迫害を受ける時でもです。とにかく、すべての時に「思い煩うのはやめるように」、です。
 2.「求めているものを神に打ち明け」るように:パウロは、ただ1.の様に勧めているのではありません。具体的なアドバイスをしています。それが、いま置かれている状況をどの様に変えてほしいのか…等の「求めていること」を祈りによって願う様に、です。
 その時大切なことが、まず、感謝することです。感謝出来ない様な状況であっても、感謝から祈りをはじめることです。
 3.人知を超える平和の約束:とにかく感謝をもって祈り始め、願いを神様に申し述べるならば、人の知恵では思いもよらない平安が与えられます。これは、キリストによる、キリストの中にいることから与えられる平安(和)です。
 4.聖霊による満たし:イエスさまは、「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。」と弟子たちに告げられました。この約束は、十字架で死なれた後三日目に死者の中から復活され、その後神様のもとに帰られてから10日後、聖霊を遣わしてくださることによって実現しました。
 いまの私たちも、同じ聖霊で満たしていただけます。聖霊で満たされるならば、恐れからも解放されます(Tヨハネ4章18節参照)。恐れから解放されるのですから、置かれた状況の中で、せいいっぱい課題にも取り組めます。
 今週も予期せぬことに直面するかも知れません。その様なときも、まず感謝をもって祈りと願いを神様に申し述べるところからはじめましょう。その中で与えられる知恵と工夫をやってみましょう。そこに平安と祝福が用意されています。

 (参考聖書箇所:ヨハネ14章27節、Tヨハネ4章18節)
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『喜んで王主を迎えたメフィボシェト』 

2017/12/10 12:00
2017年12月3日
主の日礼拝式メッセージ要約
聖書    サムエル記下第19章25〜44節  
メッセージ   『喜んで王主を迎えたメフィボシェト』   
メッセンジャー  田中文人牧師

 弱さがあるために、労苦を強いられると感じることがあるかも知れません。その弱さにつけ込まれるようなこともあるかも知れません。ですが、その弱さを嘆いても、不平を言っても、解決にはなりません。弱さがあるままであったとしても、どこに、目と思いを向けるならば、感謝と喜びの人生を歩めるのでしょうか?

 1.明らかになった真実(25〜31節):こどもの時から足が不自由だったメフィボシェトも、ダビデ王を迎えるために、ヨルダン川までやって来ました。メフィボシェトは、もっと早く会いに来たかったものの、僕ツィバに欺かれて今になってしまったことと、サウル家が盛り返すことなど思ってもいないことを話しました。ここで、ツィバがダビデに申し立てたこと(サムエル下16章1〜4節参照)が真実ではなかったことが明らかになりました。
 ですがダビデは、ツィバにメフィボシェトの土地は、「全部ツィバのものにしてよい」と宣言してしまっていました。また、メフィボシェトよりも前に、既にツィバはダビデを出迎えており、送り物まで受け取っていました。その様なことがやはり影響したのか、ダビデは、本来は土地全部をメフィボシェトが所有するように命じなくてはなりませんでしたが、フィバと半分ずつにするようにとしか宣言しませんでした。ここにダビデの不十分な判断と決断が現わされています。

 2.適切な判断と決断(32〜40節):ダビデたちがヨルダン川の東側にいた間、全財産を献げてダビデたちの世話をした人物がバルジライでした。彼もヨルダン川までダビデたちを見送りました。ダビデは、この大きな恩に感謝を現わすために、今度は、バルジライをエルサレムに呼び寄せ、世話をしたいと申し出ました。ところがバルジライは、高齢であること等を理由に故郷に住み続け、この世の生活を終えたいと希望を言いました。ですが、自分の代りに息子のキムハムをダビデに従わせることを申し出ました。ダビデはこれを快く受け入れ、キムハムを連れて行くことにし、バルジライを祝福して自宅に帰るのを見送りました。彼のこの決断は、信仰者としても王としても相応しかったと言えます。

 3.卑屈になっていなかったメフィボシェト:さて、メフィボシェトは僕ツィバから欺かれ、真実が明らかになった後もダビデから土地を全部戻す命令ももらえませんでした。それにもかかわらず、卑屈にならず、むしろ感謝し、喜んでいました。
 それは、彼が自分の弱さに目を留めるのではなく、ダビデが帰って来ることを望み見て喜んでいたからと言えます。その根底には、生きて働いておられる主を見上げる信仰があったことは間違いありません。
 私たちが見上げるところは、十字架の上で私たちの罪を買い戻してくださったイエス・キリスト、死者の中から復活され、いまも共にいてくださるイエス・キリストです。主の救いの御業に感謝する時、私たちも弱さに卑屈にならず、完全な天を望み見ながら前を向いて進み続けられます。今日から今年のアドベント(待降節)です。イエスさまが再臨される時を望み見ながら、クリスマスに向け、救い主の誕生を感謝する備えに入りましょう。

 (参考聖書箇所:Uコリント12章9節、黙示録22章20〜21節)
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主によってしっかりと立ちましょうU   すべての人たちに広い心で

2017/11/26 12:00
2017年11月26日主の日礼拝式メッセージ要約
聖書   フィリピの信徒への手紙第4章5節
メッセージ 『主によってしっかりと立ちましょうU
         すべての人たちに広い心で』
メッセンジャー 田中文人牧師

 1.「世界祈祷週」について:今日から次週の主の日までの一週間、日本バプテスト連盟では、「世界祈祷週」です。有明教会でも先ほど女性会に各地に遣わされている宣教師とご家族の紹介をしてもらいました。いつにも増してこの期間、宣教師とご家族、それぞれの地域のために祈りましょう。また、示されたところに従って献げましょう。世界伝道は、隣人にキリストを伝えるところから始まります。

 2.すべての人に:パウロがフィリピの信徒に書き送ったこの手紙の最後の章から今日聞き取りたいことは、「あなたがたの広い心がすべての人に知られるようになさい。主はすぐ近くにおられます。」(5節)です。
 「すべての人に」ですから、クリスチャンの中だけではありません。まだイエスさまも聖書も知らない人たちにも私たちの「広い心」が知られるように、という勧めです。世界中の人たちにキリスト信仰者の「広い心」が知られるようにとも受けとってよいでしょう。

 3.広い心:「広い」は、寛容な心、公平な心のことです。人の弱点を見つけた時、必要以上に指摘して責めたてたりしないこと、常識や道理を弁えて行動すること、周りをよく見て、必要な配慮をすること、独り占めせず、物惜しみせず、分かち合うこと、さらには、権利ばかり主張しないこと、たとえ自分が不公正な扱いを受ける時であっても、復讐心に燃えてやり返したりしないことです。命が危険にさらされるような時、平和が脅かされるような時は、もちろん黙っているのでなく、必要を訴えなくてはなりません。その時もこの寛容な心で申し出ることが大切です。

 4.すぐ近くにおられる主に信頼して:この様に聞いて来ると「とても無理…!」と言いたくなるのではないでしょうか?ですがパウロは同じ5節で、「主はすぐ近くにおられます。」と励ましています。
 主が「近くにおられる」こととは、1)再臨が近いこと、2)復活されたイエスさまが近くにいてくださることです。
1)いまから二千年前パウロがこの手紙をフィリピの信徒たちに書き送った時には、クリスチャンへの迫害が強まっていました。そこで、なおさらイエスさまがすぐ帰って来てくださるところに期待していました。現代は、それから二千年たちましたから、間違いなく、キリストの再臨は近か付いているといえます。
 2)は、聖書の御言葉(聖句)が私たちの身近にあるということです。その点で、毎週の教会の礼拝その他の集会、そして毎日自分でも聖書に親しむ中で、聖句を心に留めましょう。霊の目をしっかり開け、霊の耳をよくすますならば、聖霊なる神様が御心を覚らせてくださいます。御心を覚ったならば、信頼して一歩踏み出しましょう。そこに祝福があります。

 (参考聖書箇所:申命3章14節、ローマ10章8節、Uテモテ4章2節)
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『敵を許したダビデ』

2017/11/20 21:34
2017年11月19日主の日礼拝式メッセージ要約
聖書    サムエル記下第19章9節後半〜24節  
メッセージ  『敵を許したダビデ』   
メッセンジャー  田中文人牧師

 「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」(マタイ5章44節)は、多くのクリスチャンにとっても従い難く、理想としか思えない聖句ではないでしょうか?
 今日の聖書箇所には、ダビデが不完全ながら、敵を許したことが書いてあります。

 1.アマサを司令官に任じたダビデ:ダビデは、エルサレムに帰ろうとしましたが、北のイスラエル部族の間では、議論が起こり、意見が一致していませんでした。ダビデの出身部族の南ユダでも、彼を王座に戻そうという要望すら起きていませんでした。そこでダビデは、「自分をエルサレムに戻してくれ」と、使者をユダの民に送りました。この様にして、ユダの民の心をひとつにしようとしたのです。
 そして、謀反を起こしたアブサロムの使令官だったアマサを、ヨアブにかわってダビデ側の使令官に任じました。政治面での思惑も感じられますが、信仰の視点ではこのことをどの様に受取れるでしょうか?

 2.シムイを許したダビデ:ダビデに促されたユダの民は、ヨルダン川までダビデと兵士たちを迎えに行きました。ところが、その中に、シムイもいたのです。彼は、ダビデがエルサレムから逃げるようにして出て行き、泣きながらオリーブ山の坂を上っていた時、バフリムのところで、ダビデたちを呪い、塵や石を投げつけて来た人物です。
 彼は、ダビデに出合うと、その時の罪をわび、許しを請いました。ダビデの家臣のアビシャイは、「シムイが死なずに済むものでしょうか。主が油を注がれた方をののしったのです。」と言いました(22節)。ところがダビデは、「今日、イスラエル人が死刑にされてよいものだろうか。」(23節)とアビシャイに答えました。そしてシムイには、『「お前を死刑にすることはない」と誓』いました(24節)。
 この様にしてダビデは、敵対していた人々を許し、自分の側に取り込んでいきました。ですが、ソロモンに王座を引き継ぐ時、「しかし今、あなたは彼の罪を不問に付してはならない。…あの白髪を血に染めて陰府に送り込まなければならない。」(T列王2章9節)と言い渡しています。信仰者ダビデといえども、やはり完全に赦してはいなかったことが読み取れます。

 3.イエス・キリストによる赦し:私たちには、人の罪を完全に赦してくださった、イエス・キリストの十字架の御業が既に実現しています。イエスさまの十字架の血による罪の赦しは、ダビデの様に不完全ではありません。神様は、この主の十字架のゆえに、私たちの罪すべてを「もう思い出さない…」と宣言してくださっています。
 私たちが敵を愛し、許す歩みは、このキリストからの赦しを受けるところから始まります。イエスさまは「この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない。」と言われ、「あなたの罪は赦された」と罪深い女性に宣言されました。
 人を許せない時、はじめの信仰に立ち帰り、十字架の御業の貴さを受け取り直しましょう。不十分な私たちに変わらず注ぎ続けてくださっている主の恵みを数えましょう。苦手な人を許す思いにも導かれるはずです。

 (参考聖書箇所:)マタイ5章44節、ルカ7章41〜48節、Uテモテ3章12節、Tヨハネ2章6節、ヤコブ1章22〜25節
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主によってしっかりと立ちましょうT一致と喜び 

2017/11/20 21:32
2017年11月12日主の日礼拝式メッセージ要約
聖書   フィリピの信徒への手紙第4章1〜4節
メッセージ 『主によってしっかりと立ちましょうT
       = 一致と喜び』   
メッセンジャー田中文人牧師

 フィリピの信徒への手紙は、今日から最後の章に入ります。大切な勧めがたくさんありますから、何回かに分けて、しっかり聞き取りましょう。

 1.フィリピの信徒たちを熱烈に愛し慕っていたパウロ:パウロには、どの様なイメージを持っているでしょうか?キリスト信仰者を迫害していた時、彼は徹底したユダヤ教徒でした。復活のイエス・キリストから出会ってもらい、キリストを信じて180度人生が変えられてからのパウロは、今度は命がけでキリストの福音を伝え続けました。徹底してキリストを追い求めていましたから、厳しいイメージが強いのではないでしょうか?
 ですが、パウロは、愛に満ちた人でもありました。それが「わたしが愛し、慕っている兄弟たち」(1節)に現わされています。また4章全体からも読み取れます。「慕っている」は、熱烈に慕うという意味です。彼は、フィリピの信徒たちを思い、彼らが健全なキリスト信仰に留まり、天を目指して進み続けることを心から願っていました。そこで、この手紙を終えるに当たり、しっかりと立つように勧めています。

 2.一致するように:ひとつは、エボディアとシンティケがひとつ思いになるように、です。この二人の婦人たちは、フィリピ教会で大きな働きに用いられていました。ですが、この時は、挑み合っていたようです。その影響が群全体に広がっていましたから、いち早く解決する必要がありました。
 まずパウロは、「主において同じ思いになるように」勧めています。(2節)「主において」は、キリストにあってという意味です。この2人も、神様と自分たちとの関係を回復してくださるために、イエスさまが十字架で死んでくださったこと、その貴い血によって罪が買い戻されたことを受け入れ、救いの恵みにあずかりました。自分のためにイエスさまが身代りの死をとげてくださったことを心から感謝するところに立ち帰るならば、仲たがいしている相手との関係を回復するための勇気も出て来るのではないでしょうか?
 それでも、人の心はなかなか頑固です。そこでもうひとつ、関係回復のためには、「真実の協力者」(3節)のとりなしを得ることが必要になります。3節はパウロからフィリピの信徒へのその依頼です。

 3.常に喜ぶように:しっかり立ち続けるためにパウロは、「常に喜ぶ」ことを勧めています。「常に」ですから、「いつでも」です。人は皆、気分が良い時もあれば、優れない時もあります。悲しい時もあれば、怒るときもあります。それらすべてのときを含めて、「常に」です。

 4.主において:この様に聞いて来ると、「そうは言われても…、私にはちょっと…?」と言いたくなるかも知れません。そこで思いを向けたいところが、やはり「主において」です。ぶどうの木であるイエスさまに目を向け、その主にしっかりつながりましょう。「喜び」は、御霊の実のひとつです。
 イエスさまにつながることは、聖書の御言葉に親しみ、聖句に養われ、日常生活の中で示された御言葉をやってみることです。今週も、聖霊なる神様による喜びに満たされてしっかり立ち続ける歩みに遣わされましょう。

 (参考聖書箇所:ヨハネ15章5節)
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『天を目指して走り続けましょう』

2017/11/08 18:40
2017年11月5日
主の日礼拝式メッセージ要約
聖書    フィリピの信徒への手紙第3章12〜21節  
メッセージ   『天を目指して走り続けましょう』   
メッセンジャー  田中文人牧師

 1.召天者記念礼拝式に当たって:今年もご家族が既に安らいでおられる天を望み見る礼拝を共に出来、感謝しています。
 故人の魂は、死の瞬間、愛用した肉体を離れ、イエス・キリストを信じていた人の魂は、天国の待合室に移されます。キリストが再臨される時、そこから復活の恵に与ります。その間、地上に戻って来ることはありません。
 2.天へ行くには:完全な天に行く約束は、ただ、イエス・キリストを「私の救い主」と信じるだけでいただけます。善行を積むことにも、旧約の律法を行なうことにもよりません。キリストが再び来られる時、尋ねられることもただ「キリストを信じていたかどうか?」それだけです。キリストを信じて死んだ人も、信じずに死んだ人も、みな復活し、この質問をされます。そして、「はい。」と答えるならば、本当に完全な天に迎え入れられます。その時を楽しみにしながら生きている人たちが、キリスト信仰者です。
 3.キリストに似るところを目指して:ところで、クリスチャンは、天国行きの切符をいただいてはいますが、完全ではありません。この世では、どこまでいっても不完全です。パウロも「わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。」(12節)と書いています。
 ところが、フィリピの教会には、そこを間違えて、既に完全になっていると考えていた人たちがいました。そうなると、キリストに似るところ、神様の御心に適う、聖なる生活 = 天を目指して進み続ける歩みはなくなります。あとは、この世を楽しみ、快楽を追求するようになってしまいます。
 そこでパウロが書き送っている勧めが、「神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ること」(14節)です。これは、人格的にも日常生活の倫理道徳面でもキリストに少しでも似るところを願って、精一杯生きることです。
 4.原動力は神様ご自身:この様に聞き取って来ると、クリスチャンは「疲れる!」と言いたくなるでしょうか?ですが、クリスチャンは皆「キリスト・イエスに捕らえられてい」ます(12節)。自分の力で進み続けようとするならば、間違いなく疲れます。人の力によるならば、気を遣い、精神的に疲れてしまいます。ですが、キリストご自身が捕えていてくださり、聖霊の助けを送ってくださいます。その力で進み続けますから、疲れ果てることはありません。ときには疲れることもありますが、必要な休息を取るならば、また新たな力を受けて進んでいけます。死ぬ瞬間まで成長させていただけるところに感謝しながら、今週も天に向かって走ってまいりましょう。イエス・キリストからの招きを感じている方は、一日も早く信仰の決心をしましょう。

 (参考聖書箇所:イザヤ40章28〜31節)

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『アブサロムの戦死』

2017/10/23 16:41
2017年10月22日主の日礼拝式メッセージ要約
聖書    サムエル記下第18章1〜18節  
メッセージ    『アブサロムの戦死』   
メッセンジャー   田中文人牧師

 1.戦いに備えたダビデ(1〜2節):逸早くヨルダン川の東に逃れたダビデとその兵士たちは、マハナイムで休息を取り、元気を回復しました。そしてダビデは、兵士を数え、三部隊に分け、アブサロムが率いるイスラエル軍との戦いに備えました。
 2.ダビデの指示(3〜5節):ダビデは、1)「自分も皆と一緒に出陣する」と将軍たちに言いました。2)「自分の息子アブサロムを手荒にはあつかわない様」に、将軍たちに命じました。
 1)を聞いた兵士たちは、ダビデ一人が自分たち一万人に等しいので、出陣せず、町に残って兵士たちを助けてくれるように言いました。ダビデもこの意見を受け入れ、町の門のところで兵士たちを戦いに送り出しました。
 2)の指示を兵士たちも全員、ダビデが将軍たちに告げるのを聞いていました。ダビデにとってこの戦いは息子を相手にすることになりましたから、彼の思いは大変複雑だったことがわかります。
 3.主によるダビデ軍の勝利(6〜8節):戦いはエフライムの森で行なわれ、イスラエル軍は密林の中で大苦戦を強いられました。そして二万人の兵を失い、大敗北を喫しました。「その日密林の餌食になった者は剣が餌食にした者よりも多かった。」(8節)とありますから、ダビデ軍が密林戦に慣れていただけでなく、あきらかに神様の御手による勝利だったことがわかります。
 4.アブサロムの死(9〜18節):その様な中アブサロムは、ダビデの家臣と出くわしました。そこでさらにスピードを上げて逃げましたが、乗っていたらばが樫の木の下を通った時、彼の髪の毛が木に引っかかりました。らばはそのまま走って行きましたから、アブサロムは中釣り状態になってしまいました。自慢だった髪の毛が木に引っかかってしまったのですから、何とも皮肉です。
 これを見ていたダビデ軍の一人の兵は、将軍ヨアブのところに帰って報告しました。彼は、ダビデが将軍たちに告げた「自分の息子アブサロムを手荒にはあつかわない様」に、の指示をしっかり聞いており、忠実に従ったのです。ところがヨアブはそうではありませんでした。この兵が褒美にもつられないことを知ると、自分でアブサロムのところまで行き、三本の棒で彼の心臓を突き刺しました。一緒に行った10人の兵がその後、止めを差しました。この様にしてアブサロムは死に、ヨアブたちが掘った穴に投げ込まれ、その上に石塚が築かれました。
 5.野望ではなく主の前にへりくだる人生を:アブサロムには、中釣りになった時に助けてくれる部下もおらず、後を継ぐ息子たちも既に死んでいました。「生前、王の谷に自分のための石柱を立てていた」(18節)だけでした。孤独で寂しい人生だったと言わざるを得ません。その原因は、彼の生きる規準が自分の野望だったからと言えます。
 祝福の原則は、主の前に謙る歩みです。神様は御ひとり子を十字架の死に引き渡す犠牲を払ってくださり、ダビデ以上に痛み苦しみを味わわれました。十字架の血による罪の赦しを感謝し、日々御言葉に従う一週間に遣わされましょう。
 (参考聖書箇所:ヤコブ4章10節)
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『主に用いられた人々』 

2017/10/16 21:00
2017年10月15日主の日礼拝式メッセージ要約
聖書    サムエル記下第17章15〜29節  
メッセージ   『主に用いられた人々』   
メッセンジャー  田中文人牧師

 意識して「神様のために…」働こうとすることもありますが、自分でも思いもよらない時に、考えてもいなかった方法で主のために用いられることもあります。

 1.アヒトフェルの死: ダビデ王からアブサロム側の助言者に鞍替えしていたアヒトフェルは、自分の提言が退けられたことを知ると身の行く末まで見通し、身辺処理まで済ませました。そして「首をつって死に、祖先の墓に葬られ」(23節)ました。彼は、どこまでも自分の利益になることを考えて動いていたのではないでしょうか?

 2.ダビデ王のために動いた人々: 1)フシャイ=「荒れ野の渡し場で夜を過ごさず、渡ってしまわなければなりません。」と祭司たちに告げ、伝令を送りました。それは、「王と王に従う兵士が全滅することのないように。」するためでした(16節)。 2)遣いの女=彼女は祭司から告げられたことをその息子たちに伝える役割りを忠実に果しました。 3)バフリムのある男の家の妻=祭司の息子たちはアブサロム側の追手を察知し、バフリムのある男の家に入り、そこにあった井戸の中に身を隠しました。そこの妻はビックリしましたが、とっさの判断で、井戸の上に覆いを広げ、脱穀した麦を置きました。そして追いかけて来た者たちに「ここを過ぎて川の方に行きました。」と告げました。彼女は自分でも思いがけない言動で、主のご計画のために用いられたと言えます。 4)三名の協力者たち=ダビデは、マハナイムに着くと、ナハシュ、マキル、そしてギレアド人バルジライの三人から、寝具や食料等、これから必要な物資の提供を受けました。
 上記の4組の人々がネットワークの様に用いられ、ダビデ軍はヨルダン川の東に逃がれ、安心して休息を取り、作戦を練り、準備することが出来ました。

 3.主のために:いまの私たちも救い主イエス・キリストのために、「主の栄光を現わす」ために用いられることを願い出たいものです。2.の人々の中には、自分で意識してダビデ王のために考えて動いた者たちもいました。しかし3)の妻の様に思わぬところで用いられた人もいました。彼女は、直感によって「この人たちは守らなくてはいけない…」と感じたはずです。だからといって、自己中心に生きている人がこの様な働きに用いられることは、めったに無い筈です。やはり日頃から良心に従っている人、御心を尋ねている人を主は用いられます。
 私たちが願い出たいことは、主を畏れかしこむこと、日頃から「何が主のためになることなのか?」を聖書の御言葉から聞き取り祈っていることです。何より規則的に礼拝することです。地味ですが、その様な者を主は用い、祝福してくださいます。

 (参考聖書箇所:Tテモテ1章18〜19節)
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『キリストには替えられません』

2017/10/08 12:00
2017年10月8日主の日礼拝式メッセージ要約
聖書    フィリピの信徒への手紙第3章1〜11節  
メッセージ   『キリストには替えられません』   
メッセンジャー  田中文人牧師

 キリスト信仰は「喜び」です。そのことをパウロは、繰り返しこの手紙で書き送っています。その「喜び」とは、どの様な喜びでしょうか?また、パウロ自身どの様にして得たのでしょうか?
 1.ただのボジティヴ シンキングではなく:何でもかんでもうれしがる喜びではありません。警戒しなくてはならないことには敏感になり、しっかり見極め、惑わされない様にする必要があります。その点でただのポジティヴ シンキングとは違います。二千年前、警戒しなくてはならなかったことは、ユダヤ教時代の割礼を受けないと、本当のクリスチャンではないと言っていた人たちです。彼らは、なおユダヤ教の儀礼にしがみ付いたままでした。
 2.本もののキリスト信仰者(3節):1)神の霊によって礼拝する者=体に傷(割礼)があるかないかではありません。「イエス・キリストを救い主」と信じる信仰によって霊と真による礼拝を献げる人です。
 2)キリスト・イエスを誇りとする者=「私が私が…」ではなく、キリストを愛し、自分は低くし、キリストを高く崇める人です。
 3)肉に頼らない者=自分の血筋や家柄、学歴、経歴を拠り所にせず、聖書の御言葉に頼る人生を歩む人です。
 3.肉に頼っていたパウロ(5・6節):この様に書いているパウロもかつては、自分に頼り、家柄や学歴等を誇りにしていました。彼は、れっきとしたユダヤ人で、当時最高の学問も修めていました。信仰の面でもバリバリの律法主義者でした。そのうえキリストを信じる様になった人たちを迫害する先頭にも立っていました。
 4.180度変えられたパウロ(7・8節):ところが、復活されたイエス・キリストに出会ってもらったその時からパウロは生きる向きを180度変えられました。自分が迫害していたクリスチャンたちが信じ、命をかけていたキリストが、本当に復活され、生きて働いておられることを身をもって知らされたからです。
 それからのパウロは、この救い主と人格で深く交わる様になりました。すると、次第に、キリストのすばらしさを知る様になりました。そしてそれまで誇りにしていたことが、無益なものに思えて来ました。ついには、損失と見るようになり、塵あくたと見なすようにまで変えられたのです。
 5.「義」とされた喜び(9〜11節):「義」は、神様と正しい関係に迎え入えられるという意味です。神様の子どもにしていただくとも言えます。私たちも、ただキリストを「私の救い主」と信じるだけで同じ恵みに与ることが出来ます。そして、日々聖書の聖句に養われ、毎回心から礼拝し祈るならば、次第に「キリストには替えられません」というところに導かれます。そこを願い出ながら、今週の歩みに遣わされましょう。
 (参考聖書箇所:ヨハネ4章24節、フィリピ2章6〜8節、)
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『フシャイの意見も聞きたくなったアブサロム』

2017/10/01 21:29
2017年10月1日
主の日礼拝式メッセージ要約
聖書  サムエル記下第17章1〜14節  
メッセージ『フシャイの意見も聞きたくなったアブサロム』   
メッセンジャー 田中文人牧師

 「自分でもよくわからないけれども、そうしたいと思った」ということはないでしょうか?今日のアブサロムも同じ思いだったのではないでしょうか?
 1.アヒトフェルの提言(1〜5節):アヒトフェルは、彼が一万二千人の兵を選び、今夜のうちに追跡すれば、確実にダビデを捕えられると、アブサロムに申し出ました。これは、ダビデたちが疲れ果てているところを攻める策戦です。休息と立直す時間を与えませんし、アヒトフェル側にとっては、最少限の犠牲で勝利出来る戦略で、大変優れていました。アブサロムも周りにいた長老全員の目にも「正しい」と映りました。
 2.フシャイの提言:ところがなぜかアブサロムは、フシャイの意見も聞いてみたくなりました。彼は、ダビデからスパイの役を託され、アブサロム側に寝返ったふりをしていました。フシャイは、アヒトフェルの提言について、「今回は」優れていないと説明するところからはじめました。続けて彼は、アブサロム自身がイスラエル全国から兵を集めるように、そしてアブサロム自身が先頭に立ってそれらの兵を指揮して出兵するように、その様にして隠れ場のひとつにいるダビデを打つように、町にいるならば町ごと縄をかけて川に引いて行くようにと提案しました。勇敢なダビデは仲間の兵士たちと一緒にいるはずはなく、その様な中、いま出ていき、アブサロム側の兵が少しでもダメージを受けるならば、イスラエルの民の思いもアブサロムから離れるという理由からでした。
 3.摂理によるフシャイたちの決定:上記二人の提案を冷静に比べるならば、アヒトフェルの方が優れていることは、明らかでした。なぜならば、フシャイの案では、イスラエル全地域から兵を集めるために日数が必要になります。その間にダビデ側に休息と立直す時間を与えてしまうことになるからです。
 ですが、アブサロムは、フシャイの案の方を採用しました。また長老たちも同じ様に受け入れました。なぜこの様なことが起きたのでしょうか?
 フシャイはいまから三千年前のイスラエルでよくつかわれていた熊を譬えに、ダビデ側の状況を説明しました。それが彼らに受け入れられやすかったことは間違いありません。またアブサロムの自尊心にも訴え掛けました。ですが、それ以上に14節にある通り、「アヒトフェルの優れた提案が捨てられ、アブサロムに災いがくだることを主が定められたからである」。人の知恵では理解出来ない摂理が働いて、思わぬ方向に向かうことになったのです。
 4.高ぶらず御言葉によく聞くことから:現代でも主の摂理は働きます。私たちも「なぜか…をするように感じた。」という体験をすることもあります。また、予想に反する大逆転も起きます。そこに用いられることもあります。毎週の主の日の礼拝で心から生きて働いておられる父なる神様と救い主イエス・キリストを聖霊に導かれて畏れかしこみ喜びましょう。また毎日自分でも聖書につながり、天国の原則を聞き取り、そこに沿って歩めるよう祈りましょう。主は摂理に従って祝福し用いてくださいます。
 (参考聖書箇所:箴言19章21節)
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『福音のために』

2017/09/24 20:00
2017年9月24日主の日礼拝式メッセージ要約
聖書    フィリピの信徒への手紙第2章19〜30節   
メッセージ  『福音のために』   
メッセンジャー  田中文人牧師

 今日の聖書箇所には、ここまでパウロがフィリピの信徒たちに書き送って来た勧めを実践していたふたりのキリスト信仰者たちのことが記されています。(フィリピ2章、参照)
 1.テモテ(19〜24節):彼は、三代目のクリスチャンでした。また、パウロの伝道旅行に同行し、成熟したキリスト信仰者に成長していきました。
 彼は、1)パウロと同じ思いでフィリピ教会のことを真剣に心配し、祈っていました。2)「確かな人物」(22節)でした。これは、試験に合格するという意味で、伝道・牧会者に相応しい人物ということです。3)何より福音のために熱心に働き、御言葉に仕えていました。彼は、ちょうど子が父に従うように、御言葉に従っていたのです。
 その様なテモテをパウロは、フィリピに遣わそうとしていました。パウロのために祈り献げていたフィリピ教会に裁判の結果を伝えるためです。また、フィリピ教会の様子をテモテが見て、それをパウロに報告してもらい恵を分かち合いたいという思いもありました。
 2.エパフロディト(25〜30節):彼は、フィリピ教会のメンバーでした。このとき彼は、1)パウロを支援するためにフィリピ教会で集められた献金を届けるために、2)フィリピ教会を代表してしばらくパウロを助けるために、送り出されました。
 ところが、旅を急いだためかも知れません。ローマに着くと重い病気に罹りました。ところが、2千年前であったにもかかわらず、彼が病に罹ったことがフィリピ教会に伝わり、フィリピの群れは彼の回復のために祈りました。自分の病が伝わったことをエパフロディトは心苦しく思うとともに、フィリピ教会の祈りが聞かれたことを感謝しました。そして、癒されて元気になった姿を早くフィリピの兄姉に見てもらいたいと願っていました。テモテと同じ様に彼も命をかけて委ねられた働きに励んだ信仰者でした。
 3.パウロの信仰:上記二名だけでなく、パウロ自身もここまでフィリピ教会に勧めて来た信仰の歩み =自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払う(2章4節)歩みに献身していました。それが、テモテをフィリピに遣わし、エパフロディトを同じフィリピ教会に戻すことでした。これら二名がいなくなると、物心両面でパウロにとっては痛手だったはずです。それでもパウロは、自分のことは後まわしにして、喜んで彼らを送り出すことに決めていました。
 4.愛されるだけでなく:彼ら三名がこの様なところに喜んで遣えることが出来たのは、キリストの十字架の血による罪の赦しをいただき、キリストが事実復活されたことを信じて永遠の命の約束に生かされていたからです。そこを人生の土台に据え、今度はそのキリストの「福音のために」最善を尽していたと言えます。
 私たちも同じ救いの恵みにあずかったならば、神様を愛し隣人を愛する歩みを願い出ましょう。主は必ず輝く人生に用いてくださいます。
 (参考聖書箇所:マタイ22章37〜39節他)
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 『み心はどこに?』

2017/09/17 12:00
2017年9月17日主の日礼拝式メッセージ要約
聖書    サムエル記下第16章15〜23節   
メッセージ    『み心はどこに?』   
メッセンジャー   田中文人牧師

 1.歴史を動かしておられる主:英語で歴史はhistory(ヒストリー)です。これは、His story(彼の物語り)で、His(彼)は、神様を意味しているといわれています。歴史は人がつくっている様に思いますが、実は、神様ご自身が人間の只中に介入され、動かし、導いておられるのです。
 ですが、「それならば、なぜ…の様なことが起こるのか…?」と言いたくなるかも知れません。実際、その様に問いたくなる様なことが私たちのまわりでは多く起きています。その様な出来事の中に、神様はおられないのでしょうか?
 2.スパイになったフシャイ:ダビデの助言者だったフシャイは、ダビデからアブサロムの助言者になり、スパイの役をする様に使命を受けました。そこでアブサロムに会うと「王様バンザイ!」ト言いました。はじめのうちアブサロムは警戒していましたが、彼が「それでは、わたしは誰に仕えればよいのでしょう。御子息以外にありえましょうか。」とまで言うので、助言者の一人に受け入れました。このように、アブサロムが比較的簡単に前王の側近だったフシャイを受け入れたところにも、神様の介入と働きがあったことがわかります。
 3.アヒトフェルの助言:一方、アヒトフェルがアブサロムに助言したところにも神様は働いておられました。彼は、ダビデがエルサレムに残していった10人の側女たちと関係をもつように提案しました。こうすることで、ダビデとアブサロムの間に、決定的な溝をつくることになるからです。そして、民はダビデではなくアブサロムの方に従う様になるというのでした。アヒトフェルの助言は神託の様にダビデにもアブサロムにも受け取られていましたから、この助言も受け入れられ、ただちに天幕が張られ、アブサロムはダビデの側女たちと関係をもちました。
 4.主の御心:ダビデにとって、息子のアブサロムが勝手に王位を奪い、そのうえ自分の傍女たちとも関係をもったことは、「最悪」としかいえない出来事でした。神様の御心はどこにあったといえるのでしょうか?
 ひとつは、ダビデにとっては、自分の罪の刈り取りだったといえます。アヒトフェルの助言により、以前預言者ナタンを通してダビデに告げられていた御言葉がここで実現したことがわかります(サムエル記下12章12節参照)。
 もうひとつは、アブサロムが神様から立てられた王ではないことがはっきりしたことです。人の考えではアヒフォテルの助言は賢く思えます。ですが、旧約の律法に照らすならば、父の妻たちと通じることは、大きな罪であり、その様な者に祝福は与えられません(創世49章4節、レビ18章8節、参照)。つまり、神様はアブサロムが父の側女たちと通じたことにより、アブサロムをイスラエルの王座から完全に退けられたのです。
 5.まとめ:私たちの生活の中にも神様は生きて働いておられます。ダビデがアブサロムに逆襲等せず、示された罪を悔い改め、御心を尋ねたように、私たちも「人が悪い、社会が悪い」とばかり言うのでなく、自らを聖書の原則に照らすところからはじめたいものです。そして示された罪は、すぐに認め、キリストの十字架の血による赦しを願い出、悔い改めましょう。どの様な的外れでも全部赦していただけます。その様な歩みを願い出る者を神様は大きく祝福してくださいます。
 (参考聖書箇所:創世49章4節、レビ18章8節、Uサムエル12章11〜12節、マタイ26章25節)
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「ここに愛がある」

2017/09/12 09:51
2017年9月10日主の日礼拝メッセージ要約
聖書       ヨハネによる福音書3章16〜17節
メッセージ   「ここに愛がある」
メッセンジャ−  加来国生牧師
          (筑紫野二日市キリスト教会)

人生には、3つの坂(さか)があると言います。上り坂、下り坂、そして「まさか」です。クリスチャンになったからと言って試練や苦しいことがなくなるわけではありません。
【一か月の間に3つの出来事が重なった】
19年前(1998年)の12月に私にとって自分の力では超えられそうにない出来事が3つ同時進行で起きました。1つは、勤めていた会社が、不良債権を抱え、突然解散し、仕事がなくなり、収入が途絶えました。2つ目、収入が無い中、次女がまもなく生まれる月でした。3つ目は、大好きな父親に末期がんが宣告され、余命あと半年と告げられたことです。祈らざるを得ない状況の中、祈りましたが現実は辛いことばかりでした。
【張り詰めた緊張感から、別の方向へ】
既に母をなくしている私にとって、父が死んでからというもの、孤独と不安に襲われました。それは、私が生まれてから、これまでを点ではなく、線で知っている人は、もうこの世の中に誰もいない、という孤独感です。私はもう、自分自身をコントロールできなくなってしまいました。
【一冊の聖書から希望が与えられた】
そのような状態の時、普段は、そんなことはしないのですが、ある日、どうしてそうしたのか分かりませんが、薄いこの新約聖書をカバンに入れて通勤し始めました。
通勤時間片道1時間半、往復3時間、聖書を開き始めました。生きる気力がありませんから、目に力も入りません。そうこうしている内に半年間過ぎました。さすがに、3時間、半年も同じ聖書を読み続けていると何が書いてあるのか、大筋で分かるようになってきました。それは、「イエスさまが、私が死んだのだからあなたは生きなさい」「生きよ」と言っておられるように思えるようになったのです。神さまは愛して下さるお方です。死にかかっている私の代わりに救い主イエスさまは十字架について命をかけてまで、私を生かして下さったと知りました。この世に、私を愛してくれるお方がまだいると分かると途端に嬉しくなりました。
神様は、「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」(イザヤ書43:4新改訳)。今までは一人孤独と思えていたことが、実はそうではなく、私を認め、受け入れて下さるお方が少なくとも、もう一人いると思えるようになって、とても嬉しくなり孤独から解放されました。まだ私を愛してくれるお方がいると分かったとき、飛び上りたくなるほど嬉しくなりました。自分の力ではダメ、無理、限界だったのですが、自分以外の何らかの特別な大きな力が及んだ、としか考えられないのです。すべてを失ってしまったと思ったとき、初めて神さまの恵みが私の中にどんどん流れ込み始めました。聖書のことばは、私たちの心に平安を与えてくれます。
【絶望から希望へ、生きる喜びが与えられた】
私は、聖書の言葉、聖書に記されている希望によって一命を取り留めました。聖書の言葉から、神さまを信じることによって、生き延びる命の喜びを体験しました。聖書に書かれている言葉、神の内にいつもいると言う人は、イエスが歩まれたように自らも歩まなければなりません。(ヨハネの手紙T 2:4-6)「新共同訳」によって進む道が与えられました。
【まとめ】
私は、三つの同時進行の事件でわたしの人生は、もう終わりかもしれないと思いました。何で自分の周りにこんなことが起きるのか、よりによって重なって、1つでも大きい問題なのに何故、何故、と。ところが、もしかしたら、神さまの愛を知るという目的を備えて下さっていたのかもしれません。私だけに起きることではありません。神さまはその人その人に出会い招いて下さり愛を示してくださいます。
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『最悪の時にも御手の業を認めていたダビデ』

2017/09/03 12:00
2017年9月3日主の日礼拝式メッセージ要約
聖書   サムエル記下第16章1〜14節
メッセージ 『最悪の時にも
          御手の業を認めていたダビデ』   
メッセンジャー 田中文人牧師

 どの様な状況にいるとき、「最悪だ…!」と感じるでしょうか?予期せぬ災害にみまわれる時には、そう感じることでしょう?侮辱されるときにも同じように感じることがあります。特に、心当たりがなく、謂れのない侮辱を受けるときは、「最悪!」としか思えないことでしょう。その様なとき、私たちは何をするでしょうか?今日の聖書箇所に記されているダビデの様な対応が出来るならば、信仰による歩みと言えます。
 1.不十分だったダビデ:とはいっても、ダビデも罪人の一人に過ぎません。息子のアブサロムに謀反を起こされ、エルサレムから逃げて行く途中、山頂を少し下ったとき、食料を持って来ていたツィバの出迎えを受けました。すると彼は、ダビデが手厚い待遇を与えていたメフィボシェトがこの混乱している時に、王権をサウル家に取り戻すと言っているとダビデに告げました(3節)。後にダビデがエルサレムに戻った時、このフィバの言い分は事実とは違うことが明らかになります。ですが、この時のダビデには、それを見抜けませんでした。ツィバが食料を持って来てくれたことで、少し気が緩んだのかも知れません。いずれにしても、信仰の人ダビデも不十分でした。
 2.裁きを主に委ねたダビデ:一方、その後出会ったシムイにダビデは、天国の原則に沿う対応を取りました。ダビデたちがバフリムに差し掛かったとき、サウル家のシムイが出て来て、ダビデたちと一定の距離を取り、反対側の山腹を平行して歩きながら、呪い出したのです。そのうえ石や塵も投げつけて来ました。ダビデの周りには、一緒に逃げていた部下が大勢いましたから、シムイ一人に逆襲することは十分可能でした。ついに、ツェルヤの息子のアビシャイが「シムイの首を切り落としてやります。」(9節)と申し出ました。ところがダビデは、ダビデ自身の罪のためにこの様な目に会っているのであれば、主がシムイの背後におられ、彼に呪わせておられることになる、と答え、アビシャイの申し出を許しませんでした。
 また、シムイが呪って言ったことの中には、事実とは異なる内容もありました。それでもダビデは、言い返すことも、弁明することもせず、呪われるままに任せました。あのバト・シェバとの姦淫に始まるいくつもの罪の刈り取りをしていると受け止めていたと思われます。悔い改めると共に、シムイへの裁きを生きて働いておられる主に委ねる行動を取ったといえます。ここに、最悪の状況の中で神様の御手の業を認めていたダビデの信仰による歩みが現わされています。
 3.敵にも愛の業を:イエスさまは、「悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。」と教えられました。逆襲や報復に出るのでなく、むしろ愛の業をするように、それが天国の原則です。私たちが最悪の状況の中でも主の働きを認め、愛の業に用いられるとするならば、すべては聖霊がしてくださる御業です。私たちの努力で出来ることではありません。十字架の血による罪の赦しを心から感謝し、今週も聖霊に満たされ、導きに従う歩みを願い出ましょう。何事もない時に御言葉に繋がり続け、聖霊の導きを祈ることが大切です。
 (参考聖書箇所:マタイ5章39節、ヨハネ18章42節、ローマ12章18〜21節)
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『世にあって星のように輝いて生きていきましょう』

2017/08/27 12:00
2017年8月27日主の日礼拝式メッセージ要約
聖書   フィリピの信徒への手紙第2章12〜18節 
メッセージ 『世にあって星のように輝いて生きていきましょう』
メッセンジャー 田中文人牧師

 1.クリスチャンはこの世で輝いて生きる人たち:キリストを信じているクリスチャンは、この世に遣わされています。この世は残念ながら、初めの人アダム以来神様の言うことを聞かず、自分勝手に生きるようになってしまいました。このことが、創造主からは、「的を外した生き方=罪」とみなされます。罪の中で生きている間、神様との交わりはありません。
 ですが、神様はそこから救い出し、神様との交わりに回復を与えてくださる道を開いてくださいました。それが、イエス・キリストです。このキリストを「私の救い主」と受け入れ信じた人たちがキリスト信仰者です。十字架の血による罪の赦しをいただき、キリストの復活を事実と信じ、永遠の命の約束に与った人たちです。そして今度は、その主の愛に答えて、少しでもキリストが歩まれたようにこの世で生かされたいと願う者たちが、キリスト信仰者です。
 2.聖句に生かされる人生:キリストによる救いに与ったクリスチャンは、尚、罪の中にあるこの世に遣わされ、輝いて生かされます。それは、聖書の御言葉に魂が養われ、内側が聖霊で満たされる人生です。それだけに留まらず、聖句から知らされた天国の原則をこの世でやってみる歩みです。そこに遣わされるとき、その人は生き生きと輝く毎日を歩ませていただけます。
 3.志をもつこと:上記の様な輝く人生は、願い出ることが大切です。神様は、「あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせて」くださいます(13節)。ですが、私たちが全く願いも望みもしないところにというのではなく、「この世で輝かせてください」と願い出るところに、働きかけ、実現に導いてくださいます。そのためには、やはり聖書から御心を知っていくことが必要です。
 4.救いの達成のために従順であること:具体的には、「自分の救いを達成するように」(12節)です。「自分の」は、個人ではなく、フィリピ教会全体の「群」のことを指しています。群全体がキリストに似るところに近か付けられるように、パウロは勧めています。そのために、キリストに「従順」であることが必要です。そこからキリストにあって群(教会)は、一致に導かれます。
 5.不平や理屈を言わず行なうこと:「不平」は、教会の中で人の噂話等をすることです。「理屈」は、教会の中で信頼関係がないことを意味しています。信頼し合えないところから理屈も出て来ると言えます。
 教会の中で、この世と同じことを話題にする時は、井戸端会議で終わらない様に心がけましょう。聖書の規準に照らしてそのことを捕え、祈る交わりを目指したいものです。そこが、教会とこの世の交わりが違うところです。そこからこの世に遣わされるならば、必ず主の栄光を現わす歩みに神様は遣わして用いてくださいます。
 (参考聖書箇所:創世1章31節、他)
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− タイトルなし −

2017/08/27 12:00
2017年8月20日主の日礼拝式メッセージ要約
聖書    サムエル記下第15章24〜37節
メッセージ   『危機のときにも冷静だったダビデ』   
メッセンジャー  田中文人牧師

 今日のダビデは、大変な危機に直面していながら、実に冷静沈着な歩みをしています。家臣たちに的確な指示も与えています。彼は、人生の土台をどこに据えていたのでしょうか?
 1.目に見えない神様に信頼していたダビデ:ひとつ目の冷静な判断は、ツァドクをはじめ祭司たちが持って来ていた神の箱を都のエルサレムに戻す様に指示したことです。今から三千年前のイスラエルでは、神の箱がある所に主はご臨在されるとされていました。ですが、ダビデは、創造主であられる神様は、目に見える箱のある所にだけ存在されるようなお方ではないことをしっかり弁えていました。そこで、この箱がなくても、神様が祝福されるのであれば、確実に祝福は与えられると心から信じていました。
 2.情報収集に努めたダビデ:これからアブサロムがエルサレムでどの様なことをしようとするのか、その確実な情報を得ることは、ダビデたちにとって大変重要でした。そこで、神の箱を返すだけでなく、祭司たちも都に戻し、アブサロムの動きをダビデに伝えるように指示しました。
 3.泣きながら祈ったダビデ:そして何よりダビデは、オリーブ山の坂を登りながら祈りました。冷静沈着な判断を下し、指示を出していたダビデも、息子アブサロムから謀反を起こされたことに、大変なショックを受けていました。その大元の原因は自分が犯した罪(バト・シェバとの姦淫他)にあることを思い返し、悔い改めながら、とにかく「主よ!」と祈ったのです。また、自分からアブサロムの方に離れていったアヒトフェルの助言が愚かなものになるようにとも祈りました。これは、アヒトフェルを呪ったのではなく、彼の裁きを主に委ねる祈りでした。
 4.祈りの答え:この祈りに早速主は答えてくださいました。ダビデたちが主を礼拝する場所に着くと、アルキ人フシャイが彼らを迎えました。そこでダビデは、老年のフシャイにスパイの役を任じ、エルサレムに行き、アブサロムに仕えるように命じました。この後、フシャイもアブサロムに助言することになり、アヒトフェルの助言が実際に愚なものにされていくことになります。
 5.土台をキリストに据えて:ダビデが上記の通り冷静沈着な判断と行動がとれたのは、目には見えませんが、生きて働き、すべてをご存じの主に心から信頼していたからといえます。
 いまの私たちにとっては、イエス・キリストが人生の土台です。「誤りなき神の言葉」である聖書の御言葉を土台に据え、与えられる聖句を日常生活の中で行なえるよう願い出ましょう。実際に行なわせてくださるのは、聖霊なる神様です。
 平穏無事なときに、日々御言葉に養われ、礼拝することが、「いざ!」というとき、咄嗟の判断と行動に現われます。今週も聖霊の導きに委ね、御言葉を実現する歩みに遣わされましょう。

 (参考聖書箇所:詩編1編、マタイ7章24〜27節、ヨハネ3章8節)
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『ひたすらキリストの福音にふさわしい生活をV互いに心がけたいこと』   

2017/08/13 20:00
2017年8月13日 主の日礼拝式メッセージ要約
聖書   フィリピの信徒への手紙第2章1〜11節 
メッセージ 『ひたすらキリストの福音にふさわしい生活をV 
                = 互いに心がけたいこと』   
メッセンジャー 田中文人牧師

 キリスト教会は、神様から呼び集められた者たちの群です。いうまでもなく、その神様、救い主イエス・キリストを聖霊の導きによって礼拝するために集められています。礼拝では、創造主の前でその主を讃美し、祈ります。聖書の御言葉から慰め、励まし、戒めを受け、1週間の生活に遣わされます。キリスト教会には、多くの奉仕があります。そのために互いに仕え合います。この様にして、ひとりひとりはキリストを頭に、その体である教会に連なり、ひとつにされていきます。
 今日聞き取りたいことは、どの様な思いで互いに仕えあうならば、一致した群の歩み、ひとつの群の歩みになっていくのかについてです。

 1.パウロの心配:フィリピの教会は、健全な群でした。ですが、地上の教会で完全な群はありません。健全と思われる群にも、どこか課題はあり、その解決のために祈り合っています。
 フィリピ教会にあった課題は、今日の2章には記されていませんが、どうやらエボディアとシンティケ、二人の婦人たちのことだったようです(フィリピ4章2節参照)。彼女たちは、フィリピ教会で大切な奉仕を担っていました。ところが、いつしか、自分のための奉仕になっていた様です。二人同士で競い合う様なこともしていたのかも知れません。いくら大切な働きを担い、大きな奉仕に用いられていたとしても、その様になっていくと、いつしか教会の群全体が一致出来なくなっていきます。

 2.パウロの勧め:そこでパウロは次の様に勧めます。「何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。」(3〜4節参照)。「利己心」は、自己中心です。神様の前に謙遜になり、救いの恵みにあずかった感謝と喜びで奉仕する様に。他の人たちを尊敬し、配慮し合い仕え合う様に。そこを外さないならば、霊の一致に導かれます。フィリピ教会がそこを目指していることが、ローマで軟禁状態に置かれていたパウロにとって、さらに喜びになると記しています。

 3.キリストを見上げて:ですが、現代の教会でも「なかなか実際の歩みは…。」と言いたくなるかも知れません。そこでいつも見上げていたいところが、救い主イエス・キリストです(6〜11節)。
 イエスさまは、初めから神様(創造主)と共におられ、創造の御業にも関わられました。ですが、その身分に拘わらず、人の姿でこの世に来てくださいました。これだけでも十分過ぎますが、人を救うために十字架の死まで遂げてくださいました。そのキリストを神様は天に引き上げられました。いまキリスト教会では、このキリストを礼拝し、讃美しています。
 このキリストのことをいつも思いながら、今週も心からの礼拝を献げ、仕え合いましょう。そして、主の栄光を現す一週間の歩みに遣わされましょう。

 (参考聖書箇所:コロサイ1章15節、エフェソ5章21節)
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『自分のための謀反と民のための都逃れ』

2017/08/06 12:00
2017年8月6日主の日礼拝式メッセージ要約
聖書    サムエル記下第15章1〜23節  司式者
メッセージ   『自分のための謀反と民のための都逃れ』
メッセンジャー  田中文人牧師

 今日の聖書箇所には、王位に就く野望を実現するために父親でもあるダビデ王に謀反を起したアブサロムのことと、国民の命を最優先するために、一旦、都を明け渡したダビデの様子が記されています。
 1.謀反の準備:アブサロムは、4年かけて周到に謀反の準備をしていきました。ひとつが、自分に力があることを国民に印象付けるために、軍馬と戦車、それに50名の兵を整えたことです。もうひとつが、国民の心をダビデから自分の方に向けさせ、盗み取ったことです。
 そして4年が過ぎた時、アブサロムは父ダビデ王にヘブロンに行き、誓願を果すために礼拝を献げさせてほしいと申し出ました。初めからヘブロンで自分が王になったことを宣言しようとしていましたから、これは、礼拝を自分の野望を実現するために利用したことになります。何より、主の名をみだりに唱えることであり、モーセの十戒の第三戒に明らかに反することでした。 一方のダビデは、全く無警戒でした。すぐにヘブロンに行く許可を出し、祝福までして送り出したのです。
 2.謀反の実行:すべて自分の計画通りに進めて行ったアブサロムは、200人の者たちを連れてヘブロンに下りました。そのうえ、ダビデ王の家臣のひとりだったアヒトフェルを招き、自分の側に付け、陰謀を固めていきました。この様にして、遂にアブサロムは、角笛を吹いて、イスラエルの王になったことを宣言したのです。
 3.ダビデ王の対応:この謀反を知ったダビデは、すぐに都であるエルサレムから出て行くことを決めました。あまりにも諦めるのが早い様に思いますが、ここにダビデの信仰による選び取りが表わされています。
 ダビデの決断の基準は、イスラエルの民を戦争に巻き込みたくないということでした。息子と一戦を交えたくないという思いもありましたが、それ以上に国民の命を守ることを第一にするならば、王のプライドを捨てることも、杉材でつくった高級な家を手離すことも出来たのです。
 この様に潔い決断が出来たのは、すべてを導いてくださる主にダビデが信仰によって信頼していたからと言えます。御心であるならば、また都に帰り、王座に戻してくださると確信していましたから、10人の側女もエルサレムに残したままにしておきました。
 4.都を逃れた結果:信仰による決断をしたダビデに神様はいくつもの恵みをあらわしてくださいました。ひとつが、彼に冷静な判断力を与えたことです。エルサレムを出ると離宮で立ち止り、みかたが何人いるのかを数えました。ふたつ目に、ダビデに従った者たちの中に、ガド人イタイがいたことです。彼は一日前にガドから亡命して来たばかりでしたから、ダビデは彼にも配慮を示し、エルサレムに戻ってアブサロムに仕えることを勧めました。ですが、イタイはどこまでもダビデに仕える意志をはっきり伝えました。イタイには600人もの部下がいましたから、ダビデにとって大きな励ましになったことは間違いありません。
 私たちが生きる目的は、自分の野望実現ではなく、「主の栄光をあらわすため」です。そのために、神様第一、隣人をその次、そして自分は最後にする歩みを願い出ましょう。そこに主は大きな祝福を用意しておられます。

(参考聖書箇所:Tコリント10章31節)
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『優柔不断だったダビデ』 

2017/07/30 18:00
2017年7月30日主の日礼拝式メッセージ要約
聖書    サムエル記下第14章1〜33節 
メッセージ    『優柔不断だったダビデ』   
メッセンジャー   田中文人牧師

 自分の判断に、優柔不断なところはあるでしょうか?もしあるとしたら、どの様なことに対してでしょうか?人生で優柔不断だったために大失敗することがあるとすれば、それは何でしょうか?逆に、どの様な時に、優柔不断ではなく、新しい歩みの決断をする必要があるでしょうか?

 1.テコアの女性の例え話し:兄アムノンを殺害した後アブサロムは、母の故郷ゲシュルの国に逃げましたが、そのまま三年が過ぎました。このままでは事が前に進まないと思ったダビデの家臣、将軍のヨアブは、知恵のあるテコアの女性を呼び寄せます。変装して、自分の身に振りかかっている問題を解決してもらうふりをして、ダビデ王に問題の相談するよう頼みました。この女性は、「自分の二人の息子が喧嘩をし、一人がもう一人を殺してしまったが、親類がその殺した息子も命の償いのために生かしておくわけにはいかない、殺して跡継ぎも残さないようにすると言って来ている」という話しをしました。ダビデは、この話しを聞き、「お前にあれこれ言う者がいたら、わたしのもとに連れて来なさい。その者がお前を煩わすことは二度とない。」と約束しました。
 2.テコアの女性の勧め:そこでテコアのこの女性は、ようやく本題に入りました。つまり、いま自分に約束したことを王自身が行なうとするならば、亡命中のアブサロムをエルサレムに戻す様にとの勧めです。これを聞いたダビデは、ヨアブが背後で動いていることを見抜きました。その場にヨアブもいましたから、ダビデはすぐにアブサロムをエルサレムに戻してよいと命じました。しかし、自分の家に向かわせ、父ダビデ王の前に出ることは許しませんでした。
 3.切れたアブサロム:ところが、そのまま二年が過ぎました。アブサロムは、父ダビデ王の前に出られるようにヨアブに取り計らってもらおうとして、二度遣いをやりましたが、ヨアブは来ませんでした。そこでアブサロムは隣にあったヨアブの大麦畑に火をつけるよう、部下に命じました。さすがのヨアブもこの時ばかりは飛んで来ました。この様にしてヨアブの仲介により、アブサロムはようやく父の前に出る許可を得ました。ダビデ王も中東の挨拶である口づけをし、表面的には和解しました。
 4.ダビデの優柔不断さ:ダビデは、1)アブサロムをゲシュルに逃亡させたままにしておいた点で、2)エルサレムの家には戻る許可を与えたが、その後さらに2年間そのままにしておいた点で、優柔不断でした。これは、アブサロムの罪を放っておき、しっかり対応しなかったことになります。
 5.優柔不断ではいけないこと:私たちの、放っておいてはならないことが、罪です。「罪が支払う報酬は死です。」(ローマ6章23節)天国の原則から逸れていることに気付いた時は、すぐに悔い改めましょう。どの様な的外れでも、イエスさまの十字架の血による赦しが与えられ、神様は天国に喜んで迎え入れてくださいます。「神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです。」(ローマ6章23節)
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『ひたすらキリストの福音に相応しい生活を2=内からの苦しみの中で喜ぶ』 

2017/07/23 12:00
2017年7月23日
主の日礼拝式メッセージ要約
聖書    フィリピの信徒への手紙第1章20〜30節
メッセージ   『ひたすらキリストの福音に相応しい生活を 2
        = 内からの苦しみの中で喜ぶ』 
メッセンジャー  田中文人牧師

 ローマの軟禁状態の中でパウロは、外と自分の内側両方からの苦しみを体験していました。ですが、それらの苦しみの中で彼は心から喜んでおり、そのことをフィリピの信徒たちに書き送っています。今日は、パウロの内側からの苦しみとその中でも喜びに満たされていた様子を読み取ります。

 1.内側の葛藤:パウロにとっては、「生きるとはキリストであり、死ぬことは利益」でした(21節)。それは、復活されたキリストと出会った時から、パウロはもはや自分のためにではなく、何をするにしてもキリストのため、救い主のみが、あがめられるために生きるように変えられていたからです。ですから、パウロは、この世に生き続けることには執着していませんでした。むしろ、この世を去って早くキリストのもとに行く方を望んでいました。ですが、もう一度フィリピを訪ね、キリストにある恵みを分かち合えるならば、フィリピの信徒たちにとっては、なお喜ばしいことでした。そこで、パウロ自身、生きるのか死ぬのかどちらを望むのがよいのか、その両方の間で葛藤していたといえます。

 2.葛藤の理由:パウロ自身は既に生きるにしても死ぬにしても、とにかくキリストがあがめられるのであれば、「それでよし」という思いに至っていました。「あがめられる」こととは、キリストがどこまでも大きくされ、パウロは小さくされることです。ですが、パウロはフィリピの信徒たちのためには、なお肉に留まることの方がより望ましい(24節)と思っていました。この様にパウロは自分ではなくフィリピの信徒たちのことを思うとき、葛藤を覚えていたといえます。やはり、神様を第一に、隣人をその次にするところに歩んでいた信仰者の姿といえます。
 それでも、パウロといえども一人の弱い罪人に過ぎません。22〜23節の原文の文体は乱れていると言われます。ローマ皇帝から死刑の判決を受けるかも知れないことを予想するとき、パウロも動揺したことが読み取れます。それでもキリストがあがめられるところに立ち続け、フィリピの信徒たちにとって最善を願い出たとき、死とこの葛藤に解決が与えられていきました。

 3.霊の一致を願い出て:私たちは何のために生きているでしょうか?また、死には解決が与えられているでしょうか?「死ぬ準備ができていないなら、生きる準備もできていない」ことになります(『ディボーショナル聖書忠解』より)。
 私たちも何をするにしてもキリストがあがめられることを人生の土台に据えましょう。また、聖霊による信仰の友との一致を目指しましょう。パウロは、フィリピの信徒たちと距離は遠く離れていましたが、霊ではひとつになっていました。この霊の一致が与えられるとき、私たちも外側内側で労苦していたとしても喜びに満たされて歩み続けるところに導かれます。

 (参考聖書箇所:ガラテヤ2章20節)
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