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有明キリスト教会ブログ--今週の聖書の言葉
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日本バプテスト連盟 有明キリスト教会 主日礼拝「宣教」要約
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『感謝ととりなしの祈りから書き始めたパウロ』 

2018/02/11 13:00
2018年2月11日主の日礼拝式メッセージ要約
聖書   コロサイの信徒への手紙第1章1〜12節  
メッセージ 『感謝ととりなしの祈りから
                 書き始めたパウロ』   
メッセンジャー田中文人牧師

 今日から原則偶数週は、コロサイの信徒への手神からメッセージを聞き取ります。この手紙もパウロがローマで裁判を待つ間、軟禁状態の中でコロサイの信徒たちに書き送った「獄中書簡」のひとつです。

 1.執筆の事情:コロサイの教会は、パウロによってではなく、パウロから福音を聞いてキリストを信じたエパフラスの伝道によって出来ました。そして、健善なキリスト信仰にしっかり立ってはいましたが、当時既に入り込んでいた違う教えの影響を受け始めていました。その様な現状をエパフラスがローマのパウロのところに来て伝え、それを聞いたパウロが勧めをする必要を感じて書き送りました。

 2.感謝を伝えたパウロ:挨拶に続いてパウロは、コロサイの信徒たちがイエス・キリストを信じていることを神様に感謝しています(3節)。それは、彼らがキリストの愛に根ざし、希望に基づいて実を結び、成長していたからです。「成長」は、「広がる」とも訳されます(新改訳)。信仰、希望、愛に生かされ、キリストの福音が周りに伝わっていたことをパウロは、心から神様に感謝し、祈っていたのです。

 3.御心を悟るように(9節):続けてパウロは、コロサイ教会にあった課題について祈っていることを書き送っています。ですが、課題を指摘するのでなく、健善な信仰に立ち続けるために、さらに成長する視点で勧めています。
 それが「神の御心を十分悟」るように(9節)。人の知恵ではなく「霊によるあらゆる知恵と理解によって悟るようにです。いまの私たちにとっては、何より「聖書は誤りなき神の言葉」であるところにしっかり立って読み、御心を知らされなくてはなりません。

 4.すべての点で主に喜ばれるように(10節):キリスト信仰は信じるだけでなく、信じている神様から知らされた天国の原則を日常生活の中でやってみることが大切です。それが、キリストに従うことになります。コロサイの信徒たちは既に愛の業を実践していました(4節)が、パウロはさらに彼らが成長することを祈っています。そしてますます御心を知るように願っていると書き送っています。

 5.強められ耐え忍ぶように:神様からの力を願いますが、その栄光の力に信頼して従うように、根気よく忍耐強く信仰に立ち続けるように祈っています。大切なことは、喜びの内に忍耐することです。それは、天国を受け継ぐ約束までいただいている喜びです(12節)。
 今週も御心を知らされる祈りから課題の解決を祈り、知らされた御心に喜んで感謝のうちに従う歩みに遣わされましょう。
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『ダビデの感謝と讃美U謙遜なキリストに信頼して』

2018/02/04 13:00
2018年2月4日主の日礼拝式メッセージ要約
聖書    サムエル記下第22章26〜51節
メッセージ   『ダビデの感謝と讃美U
          謙遜なキリストに信頼して』
メッセンジャー  田中文人牧師

 22章の後半でもダビデは表題(1節)にあるように、神様がすべての敵(特にサウル)から救い出してくださったことを振り返って感謝しています。

 1.主の慈しみに生きる人には慈しみを示される主(26〜47節):神様のご性質は、主の慈しみに生きようとする人に慈しみを示されます(26節)。清くあろうとする者に清くふるまわれます(27節)。そして、貧しい民を救い上げてくださいます(28節)。人生の道の灯となり、行く手を光で照らしてくださいます(29節)。攻めて来る諸国に勝利を与え、ダビデをイスラエルだけでなく、周辺諸国の頭にまで立ててくださいました。
 一方、主の慈しみに生きようとせず、驕る者は引き下ろされます。これが、神様が「全能なお方」であることのご性質です。

 2.旧約の限界:この歌の中には、「敵を絶やし/滅ぼすまで引き返さず」(38節)「打ち、再び立つことを許さない。彼らはわたしの足もとに倒れ伏す。」(39節)「敵の首筋を踏ませてくださる。」(41節)の様に、残酷に感じる内容も歌われています。
 ですが、旧約時代の祝福は、子孫や広い領土等が与えられることでした。神様ご自身のご性質は、旧約時代も新約(イエス・キリスト)以後も変わりません。そこで、目に見える相手と戦って徹底的に勝利することは、旧約の限界と受け止められます。

 3.新約時代の戦い:イエスさまは、ひとりひとりと神様との関係、人と人との関係に回復の道を開いてくださるために、十字架の上で死んでくださいました。貴い十字架の血で全人類の的外れを買い戻し、「敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄され、平和を実現」してくださいました(エフェソ2章14〜15節)。
 そこで、いまの私たちにとっての戦いは、悪の諸霊との戦いです。人々には、キリストによる救いの恵みにあずかった感謝と喜びから、愛の業を表わします。日々聖書から天国の原則を知らされ、示された聖句を聖霊の助けを得てやってみることが、謙遜になられたイエス・キリストに信頼して歩む人生といえます。そこに、主の祝福があります。

 4.再び主を讃美したダビデ(47〜51節):ダビデにも多くの弱点と罪がありました。ですが彼は、それらを指摘された時、即座に認めて悔い改めました。神様もダビデの罪を許してくださいました。そのうえ諸国の頭にまで立ててくださった主の恵みを振り返ってダビデは、最後に感謝し讃美しています。
 今週も、謙遜に歩まれたイエスさまに手を引かれながら、主の慈しみに信頼して歩みましょう。

 (参考聖書箇所:マタイ10章14節、エフェソ2章14〜15節、〃6章12節)

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『主にある喜びで満たされる献げ物を』

2018/01/28 13:00
2018年1月28日主の日礼拝式メッセージ要約
聖書    フィリピの信徒への手紙第4章10〜23節  
メッセージ   『主にある喜びで満たされる献げ物を』   
メッセンジャー  田中文人牧師

 私たちは、教会の献金はじめ、事前事業の募金等をどの様な思いでしているでしょうか?奉仕活動はどうでしょうか?また、自分がそれらを受ける側になる時は、どの様な思いで受け取っているでしょうか?
 1.貧しい中から献げていたフィリピ教会:パウロは、フィリピの信徒たちから届いた贈り物(献金等)を、心から感謝しています(10節)。それは、彼らが、有り余る中からではなく、貧しい中から喜んで差し出した献げ物だったからでもあります。
 私たちも豊な生活が出来ているから献げるのではありません。与えられている中から、示された時に、示されたところに従って差し出すことが大切です。
 2.パウロの感謝:パウロは、フィリピの信徒たちから物(お金)が届いたことだけに感謝しているのではありません。彼自身は、貧しくても富んでいてもいかなる場合にも対処する秘訣を神様の力によって知っていました(12〜13節)。パウロが感謝したのは、フィリピの信徒たちからの贈り物が「香ばしい香りであり、神が喜んで受けてくださるいけにえ」(信仰による献げ物)だったからです(18節後半)。信仰による献げ物だったところをパウロは心から喜び、感謝を表し、神様に栄光を帰しました。
 3.信仰による献げ物への祝福:信仰による献げ物とは、イエス・キリストの十字架の血による罪の赦しと永遠の命の約束をいただいていることへの感謝の思いから差し出す献金他の贈り物です。その様に喜んで差し出された献げ物は、神様から大きく祝福されます。受け取った人たちの必要はもちろんのこと、差し出した人たちの必要も満たされます(19節)。何より、献げた人たちに「豊かな実」(17節)が与えられます。これは、内側が満たされる祝福です。
 4.献げる時と受け取る時:私たちが教会に献金する時も、慈善事業に寄付をする時も、お金や物ではなく奉仕する時も、イエス・キリストに救われた感謝の思いから喜んで差し出すことを願いましょう。そこへ導いてくださるのも、神様ご自身です(13節)。逆に私たちが受け取る側になった時も、「申しわけない!」ではなく、相手がキリスト信仰者かどうかに拘わらず感謝を表し、その方々への祝福を祈りましょう。何より、それらの人々に働きかけ、動かしてくださった主に栄光を帰しましょう。
 上記の様に贈り物を指し出し、受け取るならば、「してあげた」「恩を感じて心苦しい…」という思いからも解放されるはずです。主に栄光を帰しながら、受け取り献げる相方それぞれが祝福を願うところに、神様から命が与えられキリストの愛に生かされる人本来の交わりがあります。
 (参考聖書箇所:マタイ6章30節、Uコリント8章1〜4節、〃9章6〜8節)
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『ダビデの感謝の讃美T 主が私を喜びとされたから』

2018/01/21 13:00
2018年1月21日主の日礼拝式メッセージ要約
聖書    サムエル記下第22章1〜25節
メッセージ   『ダビデの感謝の讃美T
        主が私を喜びとされたから』   
メッセンジャー  田中文人牧師

 「絶対絶命」の中から助け出されたことはあるでしょうか?たまたま助かったのでも、偶然にその危機から逃れられたのでもなく、神様が助け出し、救い出してくださったと受けとめ、感謝するならば幸いです。

 1.二十二章の背景:この章もサムエル記の付録ですから、ダビデがいつ歌った讃美なのか、いつ体験したことを感謝しているのか、はっきりはしていません。ですが、サウル王に追われ、実際に何度となく命の危機にさらされた体験が背景になっていることは間違いありません。
 2.主に祈ったダビデ:その様な状況に置かれた時、ダビデは、主を「呼び求め」(4節)ました。その祈りは主の「耳に届」(7節)きました。そして、「大岩、避けどころ/わたしの盾、救いの角、砦の塔」(3節)になって守ってくださいました。
 私たちも八方塞がりの状態に追い込まれることがあります。ですが、上は空いています。祈りは「神様との直通電話」です。電池も電波も必要ありません。祈るところから助けを願いましょう。主は必ず聴いておられます。
 3.自然界に働きかけられる主:ダビデがどの様な自然現象によって危機から逃れられたのかはわかりません。地震や雷の様な激的な状況変化をこの様に歌っているのかも知れません(8〜15節)。とにかく彼は助け出される体験を通して、神様が自然界をも支配され、そこに働きかけ、動かされるお方であることを知らされ、感謝しています。そしてダビデは敵に囲まれる中から広い所に導き出されました。自由が与えられ、再びノビノビと前を向いて生きるようにもなりました(20節)。
 現代でも主は生きて働いておられます。自然界も支配しておられます。イエスさまも共にいてくださるインマヌエルの主です。聖霊の助けもあります。私たちも広い所に導き出されます。自然現象もその様に受け取れるならば幸いです。
 4.喜び迎えてくださる主:信仰の勇者であったダビデも多くの罪を犯した「罪人の一人」に過ぎません。その様な彼を主が喜んで迎え入れてくださることとは、罪を指摘された時、すぐに悔い改めたダビデを受け入れてくださったという意味です。確かに彼はナタンからバト・シェバとの関係で犯したいくつもの罪を指摘された時、即座に認めて悔い改めました。その罪の許しをナタンもすぐに言い表しました(サムエル下7章参照)。
 新約時代の私たちには救い主イエスさまの十字架の御業が2000年前に実現しています。どの様な罪(的外れ)でも認めて赦しを請うならば、全部十字架の血で赦し、なかったことにしてくださいます。神様が喜んで受け入れてくださることを心から感謝しましょう。今週も主に助けられた恵みをたくさん数えながら、主の栄光を現わす生活に遣わされましょう。
 (参考聖書箇所:ヘブライ12章1〜4節)
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『弱いところに現わされるキリストの恵み』

2018/01/14 13:00
22018年1月14日主の日礼拝式メッセージ要約
聖書     コリントの信徒への手紙第12章1〜10節  
メッセージ   『弱いところに現わされるキリストの恵み』   
メッセンジャー   田中文人牧師

 今日は、韓国馬山栄光キリスト教会から伝道ティームをお迎えし、共に礼拝する時が与えられ、感謝しています。
 ところで、私たちには、「これさえなければ、もっと出来るのに…。」と感じている弱さがあるのではないでしょうか?その弱さをどの様に受け止めて生きるように、今日の聖書箇所から聞き取れるでしょうか?
 1.パウロの体験:1〜6節には、パウロに与えられた体験が書いてあります。「彼は楽園にまで引き上げられ」(4節)とありますが、「彼」とは、パウロ自身のことです。彼は天国に引き上げられ、「人が口にするのを許されない、言い表しえない言葉」を聞きました。生きていながら天国の体験が与えられたのです。
 2.パウロの課題:ところが、その様なパウロにも大きな課題がありました。それが「身に一つのとげ」(7節)が与えられていたことでした。この「とげ」は、持病だったとも、その他の課題だったともいわれています。いずれにしても、「これさえなければ、もっと自由にキリストを述べ伝えられるのに…。」と思わざるを得ない大きな課題だったことは間違いありません。
 3.懇願したパウロ:パウロは、この課題が取り去られるように「三度主に願」いました(8節)。これは、必死で願った、懇願したという意味です。
 4.主からの答え:ところがこの祈りへの答えが、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」(9節)でした。「それ程取り去ってほしいのならば、取り除けよう」ではなかったのです。「弱さがあるままで伝道しなさい。だが、そのことのために行き詰まるようなことはない。」でした。
 5.主からの答えを受け入れたパウロ:この答えを聞いたパウロは、その弱さに現わされるキリストの力と恵みをむしろ誇って生きるようになりました(10節)。パウロは、ローマまでの旅を数えると、計4回も伝道の旅をしました。様々な危険や労苦はありましたが、確かにその都度守られ、必要は満たされ、行き詰まることはありませんでした。
 6.思い上がらないためのとげ:最も大切なことは、神様の前に謙ることです。パウロと言えども、天国の体験を証しするうちに、いつしか自分を誇るようになっていたかも知れません。彼は、9節の答えを主からいただいた時、「自分にある弱さ」は、その「思い上がり」から守られるために与えられた「とげ」だと受け止めたのです。
 主の恵みは、上から下に注がれます。私たちも課題が取り去られる様に祈ることは許されていますし、おおいに祈ることが必要です。ですが、祈りの結果、9節の様な答えをいただくこともあります。その時は、自分が神様を差し置いて思い上がらないために与えられている課題であると受け止めるなら幸いです。
 イエスさまご自身、最も主の前に謙り、救いの道を開いてくださるために、十字架で死なれ、その貴い血によって人の罪を買い戻してくださいました。その救い主を神様は、死者の中から復活させられ、神様と等しいところに引き上げられました。同じイエスさまがいつも共にいてくださり、聖霊を送り私たちの弱さにも力と恵みを注いでくださいます。感謝の内に、今週も弱いところに現わされる主の恵みを数える歩みに遣わされましょう。
 (参考聖書箇所:詩編119編71節、フィリピ2章6〜8節)


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『灯(ひ)を消さないよう心がける一年を』

2018/01/07 13:00
2018年1月7日主の日礼拝式メッセージ要約
聖書   サムエル記下第21章15〜22節 
メッセージ  『灯(ひ)を消さないよう心がける一年を』   
メッセンジャー 田中文人牧師

 1.年頭に:2018年が始まって一週間が過ぎました。既に仕事を始めた方もおられるでしょうし、年末年始に関係なく、通常のシフトで働いた方々もおられるでしょう。児童生徒たちは、まだ冬休み中で、今週から新学期でしょうか?
 そうこうしている内に、1月も3分の1が終わります。今年も、主の日の礼拝を生活の中心に据え、主との交わりを絶やさないことを願い出ましょう。そして、「主の栄光を現わす」生活に遣わされましょう。
 2.21〜24章について:サムエル記下(第2)も終わりが近付いて来ました。この最後のまとまりは、この書の付録といわれています。六つの記事が収められていますが、年代順とはかぎりません。いつ、どこで起こった出来事かも、はっきりしていない記事も含まれています。ですが、「誤りなき神の言葉」であることに変わりはありません。その視点で、しっかり聞き取りましょう。
 3.ダビデの晩年にあった戦い:今日の聖書箇所には、ペリシテ人が4回ダビデ王時代のイスラエルと戦ったことが記録されています。これらの戦いも、いつ起こった事なのかは、はっきりしていないとされています。ですが、「ダビデは疲れていた」(15節)とありますから、ダビデの晩年だったことがわかります。
 4.ダビデにとって「灯」を消さないようにすること:ダビデの家来たちは疲れた彼を助け、敵を打ち、イスラエルは勝利しました。そして1回目の戦の後「以後、我々と共に戦いに出てはなりません。イスラエルの灯を消さぬよう心掛けてください。」と、ダビデに戦いに出ないように誓わせました(17節)。
 「イスラエルの灯とは、ダビデの家系のことです。ダビデが戦死する様なことになれば、一家全員の命も危険にさらされることになりかねません。ダビデは以前「あなたの家、あなたの王国は、あなたの行く手にとこしえに続き、あなたの王座はとこしえに堅く据えられる。」(Uサムエル7章16節)と主から約束を頂いていました。この約束が実現するためには、最大限危険をおかさないことが必要です。その視点で主が家来たちに臨まれ、ダビデが戦死することから守られたと受け取れます。
 5.私たちの「灯」:@灯は光です。イエスさまは、「わたしは世の光である。・・・」(ヨハネ8章12節)と仰いました。聖書の御言葉の光に照らされ続けながら主の道を歩むこと、それが私たちにとって灯を絶やさないことです。
 A「灯」を絶やさないためには、油が必要です。油は祈りです。祈りは主との対話であり霊の交わりです。信仰の歩みに祈りは欠かせません。
 Bキリストの光をこの世に伝え、広げ(伝道)ましょう。今年もキリストの光を輝かす良き証し人に立てられてまいりましょう(マタイ5章15〜16節)。
 (参考聖書箇所:Uサムエル7章16節、詩編119編105節、
マタイ5章15〜16節、ヨハネ8章12節、Uテモテ4章2節)


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『ダビデの対応』

2018/01/07 12:30
2017年12月31日主の日礼拝式メッセージ要約
聖書    サムエル記下第21章1〜14節 
メッセージ   『ダビデの対応』   
メッセンジャー  田中文人牧師

 今日は、ことし最後の日です。この一年を振り返るとき、ひとりひとり、いろいろなことがあったと思います。なかには、自分がしてしまったことが原因ではないにもかかわらず、その課題を解決していかなくてはならないこともあったかも知れません。これは、割りに合わないことです。その様な課題を私たちは、どの様に受け止め、取り組んだらよいでしょうか?

 1.つぶやかなかったダビデ:ダビデがイスラエルの国の王だった時に、三年続いて飢饉がありました。その原因を神様にダビデが尋ねたところ、「前王サウルがギブオン人を約束に反して打ったから」という答えがありました。三年も続いている飢饉の原因は、ダビデ自身にはなく、サウル王にあったのです。ですが、このことを知らされた時ダビデは、つぶやくことなく、主と人々の前に忠実に解決に当たっていきました。私たちも、つぶやかないことが大切です。

 2.祈ったダビデ:つぶやかないためにも私たちがしたいことが、祈りです。ダビデは、飢饉の原因を神様に祈りを通して尋ねました。祈りは「対話」ですから、自分の思いだけを一方的に申したてるのではありません。神様が言われることも、しっかり聞くことが大切です。

 3.ギブオン人の願いを聞き入れたダビデ:サウルよりも前、ヨシュアは、ギブオン人に彼らの町は決して滅ぼさないと神様の前に誓約していました。ところが、サウルはこれを破り、ギブオン人を打ちました(聖書にこの出来事はありません。) 飢饉の原因は、このサウルの誓約違反にあったことを知らされると、ダビデは、ギブオン人から彼らの願いを聞き取りました。そして、その願いを受け入れる決断をします。

 4.主の前に忠実だったダビデ:サウルとは異なりダビデは神様の前でヨナタンとの間に結んだ約束を守り通しました。それが、ギブオン人の要求を受け入れサウルの子孫7人を差し出さなくてはならなかった時、ヨナタンの息子メフィボシェトを選ばなかったことです。
 私たちが課題を解決していくときの第一の基準も、神様との約束は、どこまでも守ることです。それが、神様を愛することになります。

 5.隣人を愛したダビデ:苦渋の決断の結果、ダビデは、アヤの娘リツパとサウルの間に生まれた二人の息子、それに、サウルの娘ミカルとアドリエルとの間に生まれた五人の息子たちの計7人をギブオン人に引き渡しました。ギブオン人はこれら7人を一度に処刑し、さらし者にしました。アヤの娘リツパは、荒布を広げて息子たちの遺体を鳥や野獣から守りました。このリツパの行ないを知ったダビデは、彼らの遺体をサウルとヨナタンの骨と一緒に引き取り、丁重に葬りました。ここに隣人を愛するダビデの姿が現わされています。

 どの様な課題であってもつぶやかず、主と人の前に忠実に解決を願っていくところに、祝福があります。主から与えられたこの一年の恵みを数えて感謝の内に新年を迎えましょう。

 (参考聖書箇所:申命35章33節、ヨシュア9章15節、ローマ12章19節、黙示録1章4節)
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『キリストにおいて常に喜びましょう』

2018/01/07 12:00
2017年12月24日主の日礼拝式メッセージ要約
聖書    フィリピの信徒への手紙4章4節
メッセージ 『キリストにおいて常に喜びましょう』 
メッセンジャー  田中文人牧師

 1.クリスマスに当たって:クリスマス、おめでとうございます。今年は今日24日のクリスマス・イブが、主の日(日曜日)と重なりました。そこで、有明キリスト教会では、いつもはイブの夜の礼拝の内容=クリスマスの聖書箇所の朗読とクリスマスの讃美歌=を午前の礼拝式のプログラムに入れながら、イエス・キリストのお誕生を感謝する礼拝を献げています。

 2.キリスト信仰の特徴は「喜び」:ところで、フィリピの信徒への手紙の特徴は、「喜び(ぶ)」が16回も記されていることです。また、旧約聖書では名詞と動詞を合わせて計247回、新約聖書では同じく計137回、旧新両訳合わせると、聖書全体では384回も「喜び(ぶ)」と書いてあります(『聖書の達人』「喜び」の項より)。そこで、「喜び(ぶ)」は、キリスト信仰そのものの特徴といえます。

 3.「常に」:ですが、4節では、「常に」喜ぶよう、パウロはフィリピの信徒たちに勧めています。「常に」ですから、私たちの健康状態や気分、置かれている状況に関係なく、「いつでも」です。その様なことがいったい可能なのでしょうか?また、その様な「喜び(ぶ)」とはどの様な喜びでしょうか?

 4.「主において」:その秘訣が「主において」です。「主に」は、「イエス・キリストに」です。「おいて」は、「あって」「よって」「内で」とも訳されます。キリストの中に(で)=in Christです。つまり、救い主イエス・キリストと人格で交わるという意味です。聖書の聖句によって、礼拝を通して、祈りと讃美によって、私たちはイエスさま、神様と、聖霊なる神様の導きをいただきながら交わる恵みにあずからせていただけます。

 5.キリスト信仰の喜び:このイエスさまを「私の主、救い主」と信じるならば、内側(魂)は、聖霊で満たされます。聖霊なる神様で満たされる喜びがキリスト信仰の喜びです。聖霊で満たされ導かれながら主との交わりを続けるならば、私たちの感情や健康状態、気分や環境等に左右されず、喜びで満たされることも可能になります。パウロ自身、この手紙をローマの牢獄からフィリピの町のキリスト信仰者たちに書き送りました。牢にいながらでも満たされる喜びが、キリスト信仰の喜びです。
 そこにひとりひとりを招いてくださるために、イエスさまは、2000年と少し前、ユダヤのベツレヘムで処女マリヤの体を通ってこの世に生まれてくださいました。罪を赦し、神様との関係、人と人との関係に回復を与え、永遠の命の約束までくださるために、クリスマスにお生まれになった神であり人である救い主が、イエス・キリストです。感謝の内に、このイエスさまの誕生を礼拝によって、また祝会で祝いましょう。
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平和を望む忠実なひとりの女性の知恵

2017/12/17 12:00
2017年12月17日主の日礼拝式メッセージ要約
聖書   サムエル記下第20章1〜26節
メッセージ  『平和を望む忠実なひとりの女性の知恵』   
メッセンジャー 田中文人牧師

 1.シェバの反乱の背景:ダビデは、エルサレムに戻り、王座も回復しました。ですが、北のイスラエルと南のユダの間には、依然としてダビデ王を取り合う争いが続いており、国内は平穏ではありませんでした。そこでダビデはユダの民を動員するためにアマサを遣わしました。ですがアマサはこの役目を十分には果せませんでした。ここに、この時ダビデの信仰も弱くなっており、それが指揮にも現われていたことが現わされています。
 その一方で、独裁色を強め、旧約聖書の原則から外れる判断をしていきました。その一例が、アブサロムに追われ、エルサレムから逃げて行った時、残しておいた10人の側女たちを養いはしたものの、やもめ同然の処遇をしたことです。

 2.シェバの氾濫:その他の面でもダビデは必ずしも民から信頼されていないところがあったようです。その様な中、シェバが反乱を起しました。早速ダビデは部下に彼を追わせます。ですが、まず追う様に命令を受けたのは、将軍ヨアブではなく、その兄弟アビシャイでした。ヨアブも負けじとシェバを追って、部下を引き連れて出発します。そして、途中出会ったアマサを殺し、以後、ヨアブがリーダーシップを発揮し先頭に立ってシェバを追って行きました。

 3.ベト・マアカ・アベルの女性の知恵:ヨアブはシェバが逃げ込んだこの町の城壁を包囲し、壊しにかかりました。この時町の中から一人の女性がヨアブに、「何故、あなたは主の嗣業を呑み尽くそう(滅ぼそう)となさるのですか。」と呼びかけました。ヨアブは、「町を滅ぼそうなどとは思っていない、シェバだけを渡してくれれば引き上げる」と答えました。
 そこでこの女性は、シェバの首を城壁から投げ落とすことを約束しました。そして、知恵を使ってその約束を果しました。この様にして、この町は血が流され滅ぼされることから守られました。
 この女性の知恵は、ベト・マアカ・アベンの町が、神様から与えられた土地 = 嗣業の地 = であることを弁えていたところにあったといえます。

 4.私たちの知恵:私たちの間や周りにも、様々な争いがあります。それらに直面する時、どの様な解決を願っていけば、主の御心に少しでも沿う歩みになるでしょうか?それが、私たちも主から与えられた分を弁えることです。
 その分は、何といっても命といえます。命は神様が与えられ、生かしておられます。争いの解決も命を奪い合う様な方法は、御心に沿っているとはいえません。武器による平和も実現しません。
 イエスさまは、神様と一人ひとり、人どうしの間係を回復してくださるために、ご自分の命を十字架の上で捨ててくださいました。十字架の血による罪の赦しをいただくところから、私たちの内側もつくり変えられます。そこを土台に命を大切にし、平和をつくる者の歩みに今週も遣わされましょう。

 (参考聖書箇所:エフェソ2章14〜16節)
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『主によってしっかりと立ちましょうV感謝をもって祈りと願いを』

2017/12/10 12:30
2017年12月10日
主の日礼拝式メッセージ要約
聖書  フィリピの信徒への手紙第4章6〜7節
メッセージ 『主によってしっかりと立ちましょうV
             感謝をもって祈りと願いを』
メッセンジャー 田中文人牧師

 アドベント(待降節)も2週目になりました。「世の光」(ヨハネ8章12節参照)であられるイエス・キリストのお誕生を心から祝うクリスマスに向け、十分に備えてまいりましょう。
 1.無理難題としか思えない勧め:この手紙の最終章4章でパウロは、「とても無理!」と言いたくなる様な勧めをフィリピの信徒たちに書き送っています。今日の「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい」もそのひとつです。
 「どんなことでも」ですから、フィリピの信徒たちの間で一致出来ない現実があっても(2、3節)です。キリスト信仰に反対する人たちから冷遇されても、迫害を受ける時でもです。とにかく、すべての時に「思い煩うのはやめるように」、です。
 2.「求めているものを神に打ち明け」るように:パウロは、ただ1.の様に勧めているのではありません。具体的なアドバイスをしています。それが、いま置かれている状況をどの様に変えてほしいのか…等の「求めていること」を祈りによって願う様に、です。
 その時大切なことが、まず、感謝することです。感謝出来ない様な状況であっても、感謝から祈りをはじめることです。
 3.人知を超える平和の約束:とにかく感謝をもって祈り始め、願いを神様に申し述べるならば、人の知恵では思いもよらない平安が与えられます。これは、キリストによる、キリストの中にいることから与えられる平安(和)です。
 4.聖霊による満たし:イエスさまは、「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。」と弟子たちに告げられました。この約束は、十字架で死なれた後三日目に死者の中から復活され、その後神様のもとに帰られてから10日後、聖霊を遣わしてくださることによって実現しました。
 いまの私たちも、同じ聖霊で満たしていただけます。聖霊で満たされるならば、恐れからも解放されます(Tヨハネ4章18節参照)。恐れから解放されるのですから、置かれた状況の中で、せいいっぱい課題にも取り組めます。
 今週も予期せぬことに直面するかも知れません。その様なときも、まず感謝をもって祈りと願いを神様に申し述べるところからはじめましょう。その中で与えられる知恵と工夫をやってみましょう。そこに平安と祝福が用意されています。

 (参考聖書箇所:ヨハネ14章27節、Tヨハネ4章18節)
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『喜んで王主を迎えたメフィボシェト』 

2017/12/10 12:00
2017年12月3日
主の日礼拝式メッセージ要約
聖書    サムエル記下第19章25〜44節  
メッセージ   『喜んで王主を迎えたメフィボシェト』   
メッセンジャー  田中文人牧師

 弱さがあるために、労苦を強いられると感じることがあるかも知れません。その弱さにつけ込まれるようなこともあるかも知れません。ですが、その弱さを嘆いても、不平を言っても、解決にはなりません。弱さがあるままであったとしても、どこに、目と思いを向けるならば、感謝と喜びの人生を歩めるのでしょうか?

 1.明らかになった真実(25〜31節):こどもの時から足が不自由だったメフィボシェトも、ダビデ王を迎えるために、ヨルダン川までやって来ました。メフィボシェトは、もっと早く会いに来たかったものの、僕ツィバに欺かれて今になってしまったことと、サウル家が盛り返すことなど思ってもいないことを話しました。ここで、ツィバがダビデに申し立てたこと(サムエル下16章1〜4節参照)が真実ではなかったことが明らかになりました。
 ですがダビデは、ツィバにメフィボシェトの土地は、「全部ツィバのものにしてよい」と宣言してしまっていました。また、メフィボシェトよりも前に、既にツィバはダビデを出迎えており、送り物まで受け取っていました。その様なことがやはり影響したのか、ダビデは、本来は土地全部をメフィボシェトが所有するように命じなくてはなりませんでしたが、フィバと半分ずつにするようにとしか宣言しませんでした。ここにダビデの不十分な判断と決断が現わされています。

 2.適切な判断と決断(32〜40節):ダビデたちがヨルダン川の東側にいた間、全財産を献げてダビデたちの世話をした人物がバルジライでした。彼もヨルダン川までダビデたちを見送りました。ダビデは、この大きな恩に感謝を現わすために、今度は、バルジライをエルサレムに呼び寄せ、世話をしたいと申し出ました。ところがバルジライは、高齢であること等を理由に故郷に住み続け、この世の生活を終えたいと希望を言いました。ですが、自分の代りに息子のキムハムをダビデに従わせることを申し出ました。ダビデはこれを快く受け入れ、キムハムを連れて行くことにし、バルジライを祝福して自宅に帰るのを見送りました。彼のこの決断は、信仰者としても王としても相応しかったと言えます。

 3.卑屈になっていなかったメフィボシェト:さて、メフィボシェトは僕ツィバから欺かれ、真実が明らかになった後もダビデから土地を全部戻す命令ももらえませんでした。それにもかかわらず、卑屈にならず、むしろ感謝し、喜んでいました。
 それは、彼が自分の弱さに目を留めるのではなく、ダビデが帰って来ることを望み見て喜んでいたからと言えます。その根底には、生きて働いておられる主を見上げる信仰があったことは間違いありません。
 私たちが見上げるところは、十字架の上で私たちの罪を買い戻してくださったイエス・キリスト、死者の中から復活され、いまも共にいてくださるイエス・キリストです。主の救いの御業に感謝する時、私たちも弱さに卑屈にならず、完全な天を望み見ながら前を向いて進み続けられます。今日から今年のアドベント(待降節)です。イエスさまが再臨される時を望み見ながら、クリスマスに向け、救い主の誕生を感謝する備えに入りましょう。

 (参考聖書箇所:Uコリント12章9節、黙示録22章20〜21節)
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主によってしっかりと立ちましょうU   すべての人たちに広い心で

2017/11/26 12:00
2017年11月26日主の日礼拝式メッセージ要約
聖書   フィリピの信徒への手紙第4章5節
メッセージ 『主によってしっかりと立ちましょうU
         すべての人たちに広い心で』
メッセンジャー 田中文人牧師

 1.「世界祈祷週」について:今日から次週の主の日までの一週間、日本バプテスト連盟では、「世界祈祷週」です。有明教会でも先ほど女性会に各地に遣わされている宣教師とご家族の紹介をしてもらいました。いつにも増してこの期間、宣教師とご家族、それぞれの地域のために祈りましょう。また、示されたところに従って献げましょう。世界伝道は、隣人にキリストを伝えるところから始まります。

 2.すべての人に:パウロがフィリピの信徒に書き送ったこの手紙の最後の章から今日聞き取りたいことは、「あなたがたの広い心がすべての人に知られるようになさい。主はすぐ近くにおられます。」(5節)です。
 「すべての人に」ですから、クリスチャンの中だけではありません。まだイエスさまも聖書も知らない人たちにも私たちの「広い心」が知られるように、という勧めです。世界中の人たちにキリスト信仰者の「広い心」が知られるようにとも受けとってよいでしょう。

 3.広い心:「広い」は、寛容な心、公平な心のことです。人の弱点を見つけた時、必要以上に指摘して責めたてたりしないこと、常識や道理を弁えて行動すること、周りをよく見て、必要な配慮をすること、独り占めせず、物惜しみせず、分かち合うこと、さらには、権利ばかり主張しないこと、たとえ自分が不公正な扱いを受ける時であっても、復讐心に燃えてやり返したりしないことです。命が危険にさらされるような時、平和が脅かされるような時は、もちろん黙っているのでなく、必要を訴えなくてはなりません。その時もこの寛容な心で申し出ることが大切です。

 4.すぐ近くにおられる主に信頼して:この様に聞いて来ると「とても無理…!」と言いたくなるのではないでしょうか?ですがパウロは同じ5節で、「主はすぐ近くにおられます。」と励ましています。
 主が「近くにおられる」こととは、1)再臨が近いこと、2)復活されたイエスさまが近くにいてくださることです。
1)いまから二千年前パウロがこの手紙をフィリピの信徒たちに書き送った時には、クリスチャンへの迫害が強まっていました。そこで、なおさらイエスさまがすぐ帰って来てくださるところに期待していました。現代は、それから二千年たちましたから、間違いなく、キリストの再臨は近か付いているといえます。
 2)は、聖書の御言葉(聖句)が私たちの身近にあるということです。その点で、毎週の教会の礼拝その他の集会、そして毎日自分でも聖書に親しむ中で、聖句を心に留めましょう。霊の目をしっかり開け、霊の耳をよくすますならば、聖霊なる神様が御心を覚らせてくださいます。御心を覚ったならば、信頼して一歩踏み出しましょう。そこに祝福があります。

 (参考聖書箇所:申命3章14節、ローマ10章8節、Uテモテ4章2節)
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『敵を許したダビデ』

2017/11/20 21:34
2017年11月19日主の日礼拝式メッセージ要約
聖書    サムエル記下第19章9節後半〜24節  
メッセージ  『敵を許したダビデ』   
メッセンジャー  田中文人牧師

 「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」(マタイ5章44節)は、多くのクリスチャンにとっても従い難く、理想としか思えない聖句ではないでしょうか?
 今日の聖書箇所には、ダビデが不完全ながら、敵を許したことが書いてあります。

 1.アマサを司令官に任じたダビデ:ダビデは、エルサレムに帰ろうとしましたが、北のイスラエル部族の間では、議論が起こり、意見が一致していませんでした。ダビデの出身部族の南ユダでも、彼を王座に戻そうという要望すら起きていませんでした。そこでダビデは、「自分をエルサレムに戻してくれ」と、使者をユダの民に送りました。この様にして、ユダの民の心をひとつにしようとしたのです。
 そして、謀反を起こしたアブサロムの使令官だったアマサを、ヨアブにかわってダビデ側の使令官に任じました。政治面での思惑も感じられますが、信仰の視点ではこのことをどの様に受取れるでしょうか?

 2.シムイを許したダビデ:ダビデに促されたユダの民は、ヨルダン川までダビデと兵士たちを迎えに行きました。ところが、その中に、シムイもいたのです。彼は、ダビデがエルサレムから逃げるようにして出て行き、泣きながらオリーブ山の坂を上っていた時、バフリムのところで、ダビデたちを呪い、塵や石を投げつけて来た人物です。
 彼は、ダビデに出合うと、その時の罪をわび、許しを請いました。ダビデの家臣のアビシャイは、「シムイが死なずに済むものでしょうか。主が油を注がれた方をののしったのです。」と言いました(22節)。ところがダビデは、「今日、イスラエル人が死刑にされてよいものだろうか。」(23節)とアビシャイに答えました。そしてシムイには、『「お前を死刑にすることはない」と誓』いました(24節)。
 この様にしてダビデは、敵対していた人々を許し、自分の側に取り込んでいきました。ですが、ソロモンに王座を引き継ぐ時、「しかし今、あなたは彼の罪を不問に付してはならない。…あの白髪を血に染めて陰府に送り込まなければならない。」(T列王2章9節)と言い渡しています。信仰者ダビデといえども、やはり完全に赦してはいなかったことが読み取れます。

 3.イエス・キリストによる赦し:私たちには、人の罪を完全に赦してくださった、イエス・キリストの十字架の御業が既に実現しています。イエスさまの十字架の血による罪の赦しは、ダビデの様に不完全ではありません。神様は、この主の十字架のゆえに、私たちの罪すべてを「もう思い出さない…」と宣言してくださっています。
 私たちが敵を愛し、許す歩みは、このキリストからの赦しを受けるところから始まります。イエスさまは「この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない。」と言われ、「あなたの罪は赦された」と罪深い女性に宣言されました。
 人を許せない時、はじめの信仰に立ち帰り、十字架の御業の貴さを受け取り直しましょう。不十分な私たちに変わらず注ぎ続けてくださっている主の恵みを数えましょう。苦手な人を許す思いにも導かれるはずです。

 (参考聖書箇所:)マタイ5章44節、ルカ7章41〜48節、Uテモテ3章12節、Tヨハネ2章6節、ヤコブ1章22〜25節
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主によってしっかりと立ちましょうT一致と喜び 

2017/11/20 21:32
2017年11月12日主の日礼拝式メッセージ要約
聖書   フィリピの信徒への手紙第4章1〜4節
メッセージ 『主によってしっかりと立ちましょうT
       = 一致と喜び』   
メッセンジャー田中文人牧師

 フィリピの信徒への手紙は、今日から最後の章に入ります。大切な勧めがたくさんありますから、何回かに分けて、しっかり聞き取りましょう。

 1.フィリピの信徒たちを熱烈に愛し慕っていたパウロ:パウロには、どの様なイメージを持っているでしょうか?キリスト信仰者を迫害していた時、彼は徹底したユダヤ教徒でした。復活のイエス・キリストから出会ってもらい、キリストを信じて180度人生が変えられてからのパウロは、今度は命がけでキリストの福音を伝え続けました。徹底してキリストを追い求めていましたから、厳しいイメージが強いのではないでしょうか?
 ですが、パウロは、愛に満ちた人でもありました。それが「わたしが愛し、慕っている兄弟たち」(1節)に現わされています。また4章全体からも読み取れます。「慕っている」は、熱烈に慕うという意味です。彼は、フィリピの信徒たちを思い、彼らが健全なキリスト信仰に留まり、天を目指して進み続けることを心から願っていました。そこで、この手紙を終えるに当たり、しっかりと立つように勧めています。

 2.一致するように:ひとつは、エボディアとシンティケがひとつ思いになるように、です。この二人の婦人たちは、フィリピ教会で大きな働きに用いられていました。ですが、この時は、挑み合っていたようです。その影響が群全体に広がっていましたから、いち早く解決する必要がありました。
 まずパウロは、「主において同じ思いになるように」勧めています。(2節)「主において」は、キリストにあってという意味です。この2人も、神様と自分たちとの関係を回復してくださるために、イエスさまが十字架で死んでくださったこと、その貴い血によって罪が買い戻されたことを受け入れ、救いの恵みにあずかりました。自分のためにイエスさまが身代りの死をとげてくださったことを心から感謝するところに立ち帰るならば、仲たがいしている相手との関係を回復するための勇気も出て来るのではないでしょうか?
 それでも、人の心はなかなか頑固です。そこでもうひとつ、関係回復のためには、「真実の協力者」(3節)のとりなしを得ることが必要になります。3節はパウロからフィリピの信徒へのその依頼です。

 3.常に喜ぶように:しっかり立ち続けるためにパウロは、「常に喜ぶ」ことを勧めています。「常に」ですから、「いつでも」です。人は皆、気分が良い時もあれば、優れない時もあります。悲しい時もあれば、怒るときもあります。それらすべてのときを含めて、「常に」です。

 4.主において:この様に聞いて来ると、「そうは言われても…、私にはちょっと…?」と言いたくなるかも知れません。そこで思いを向けたいところが、やはり「主において」です。ぶどうの木であるイエスさまに目を向け、その主にしっかりつながりましょう。「喜び」は、御霊の実のひとつです。
 イエスさまにつながることは、聖書の御言葉に親しみ、聖句に養われ、日常生活の中で示された御言葉をやってみることです。今週も、聖霊なる神様による喜びに満たされてしっかり立ち続ける歩みに遣わされましょう。

 (参考聖書箇所:ヨハネ15章5節)
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『天を目指して走り続けましょう』

2017/11/08 18:40
2017年11月5日
主の日礼拝式メッセージ要約
聖書    フィリピの信徒への手紙第3章12〜21節  
メッセージ   『天を目指して走り続けましょう』   
メッセンジャー  田中文人牧師

 1.召天者記念礼拝式に当たって:今年もご家族が既に安らいでおられる天を望み見る礼拝を共に出来、感謝しています。
 故人の魂は、死の瞬間、愛用した肉体を離れ、イエス・キリストを信じていた人の魂は、天国の待合室に移されます。キリストが再臨される時、そこから復活の恵に与ります。その間、地上に戻って来ることはありません。
 2.天へ行くには:完全な天に行く約束は、ただ、イエス・キリストを「私の救い主」と信じるだけでいただけます。善行を積むことにも、旧約の律法を行なうことにもよりません。キリストが再び来られる時、尋ねられることもただ「キリストを信じていたかどうか?」それだけです。キリストを信じて死んだ人も、信じずに死んだ人も、みな復活し、この質問をされます。そして、「はい。」と答えるならば、本当に完全な天に迎え入れられます。その時を楽しみにしながら生きている人たちが、キリスト信仰者です。
 3.キリストに似るところを目指して:ところで、クリスチャンは、天国行きの切符をいただいてはいますが、完全ではありません。この世では、どこまでいっても不完全です。パウロも「わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。」(12節)と書いています。
 ところが、フィリピの教会には、そこを間違えて、既に完全になっていると考えていた人たちがいました。そうなると、キリストに似るところ、神様の御心に適う、聖なる生活 = 天を目指して進み続ける歩みはなくなります。あとは、この世を楽しみ、快楽を追求するようになってしまいます。
 そこでパウロが書き送っている勧めが、「神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ること」(14節)です。これは、人格的にも日常生活の倫理道徳面でもキリストに少しでも似るところを願って、精一杯生きることです。
 4.原動力は神様ご自身:この様に聞き取って来ると、クリスチャンは「疲れる!」と言いたくなるでしょうか?ですが、クリスチャンは皆「キリスト・イエスに捕らえられてい」ます(12節)。自分の力で進み続けようとするならば、間違いなく疲れます。人の力によるならば、気を遣い、精神的に疲れてしまいます。ですが、キリストご自身が捕えていてくださり、聖霊の助けを送ってくださいます。その力で進み続けますから、疲れ果てることはありません。ときには疲れることもありますが、必要な休息を取るならば、また新たな力を受けて進んでいけます。死ぬ瞬間まで成長させていただけるところに感謝しながら、今週も天に向かって走ってまいりましょう。イエス・キリストからの招きを感じている方は、一日も早く信仰の決心をしましょう。

 (参考聖書箇所:イザヤ40章28〜31節)

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『アブサロムの戦死』

2017/10/23 16:41
2017年10月22日主の日礼拝式メッセージ要約
聖書    サムエル記下第18章1〜18節  
メッセージ    『アブサロムの戦死』   
メッセンジャー   田中文人牧師

 1.戦いに備えたダビデ(1〜2節):逸早くヨルダン川の東に逃れたダビデとその兵士たちは、マハナイムで休息を取り、元気を回復しました。そしてダビデは、兵士を数え、三部隊に分け、アブサロムが率いるイスラエル軍との戦いに備えました。
 2.ダビデの指示(3〜5節):ダビデは、1)「自分も皆と一緒に出陣する」と将軍たちに言いました。2)「自分の息子アブサロムを手荒にはあつかわない様」に、将軍たちに命じました。
 1)を聞いた兵士たちは、ダビデ一人が自分たち一万人に等しいので、出陣せず、町に残って兵士たちを助けてくれるように言いました。ダビデもこの意見を受け入れ、町の門のところで兵士たちを戦いに送り出しました。
 2)の指示を兵士たちも全員、ダビデが将軍たちに告げるのを聞いていました。ダビデにとってこの戦いは息子を相手にすることになりましたから、彼の思いは大変複雑だったことがわかります。
 3.主によるダビデ軍の勝利(6〜8節):戦いはエフライムの森で行なわれ、イスラエル軍は密林の中で大苦戦を強いられました。そして二万人の兵を失い、大敗北を喫しました。「その日密林の餌食になった者は剣が餌食にした者よりも多かった。」(8節)とありますから、ダビデ軍が密林戦に慣れていただけでなく、あきらかに神様の御手による勝利だったことがわかります。
 4.アブサロムの死(9〜18節):その様な中アブサロムは、ダビデの家臣と出くわしました。そこでさらにスピードを上げて逃げましたが、乗っていたらばが樫の木の下を通った時、彼の髪の毛が木に引っかかりました。らばはそのまま走って行きましたから、アブサロムは中釣り状態になってしまいました。自慢だった髪の毛が木に引っかかってしまったのですから、何とも皮肉です。
 これを見ていたダビデ軍の一人の兵は、将軍ヨアブのところに帰って報告しました。彼は、ダビデが将軍たちに告げた「自分の息子アブサロムを手荒にはあつかわない様」に、の指示をしっかり聞いており、忠実に従ったのです。ところがヨアブはそうではありませんでした。この兵が褒美にもつられないことを知ると、自分でアブサロムのところまで行き、三本の棒で彼の心臓を突き刺しました。一緒に行った10人の兵がその後、止めを差しました。この様にしてアブサロムは死に、ヨアブたちが掘った穴に投げ込まれ、その上に石塚が築かれました。
 5.野望ではなく主の前にへりくだる人生を:アブサロムには、中釣りになった時に助けてくれる部下もおらず、後を継ぐ息子たちも既に死んでいました。「生前、王の谷に自分のための石柱を立てていた」(18節)だけでした。孤独で寂しい人生だったと言わざるを得ません。その原因は、彼の生きる規準が自分の野望だったからと言えます。
 祝福の原則は、主の前に謙る歩みです。神様は御ひとり子を十字架の死に引き渡す犠牲を払ってくださり、ダビデ以上に痛み苦しみを味わわれました。十字架の血による罪の赦しを感謝し、日々御言葉に従う一週間に遣わされましょう。
 (参考聖書箇所:ヤコブ4章10節)
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『主に用いられた人々』 

2017/10/16 21:00
2017年10月15日主の日礼拝式メッセージ要約
聖書    サムエル記下第17章15〜29節  
メッセージ   『主に用いられた人々』   
メッセンジャー  田中文人牧師

 意識して「神様のために…」働こうとすることもありますが、自分でも思いもよらない時に、考えてもいなかった方法で主のために用いられることもあります。

 1.アヒトフェルの死: ダビデ王からアブサロム側の助言者に鞍替えしていたアヒトフェルは、自分の提言が退けられたことを知ると身の行く末まで見通し、身辺処理まで済ませました。そして「首をつって死に、祖先の墓に葬られ」(23節)ました。彼は、どこまでも自分の利益になることを考えて動いていたのではないでしょうか?

 2.ダビデ王のために動いた人々: 1)フシャイ=「荒れ野の渡し場で夜を過ごさず、渡ってしまわなければなりません。」と祭司たちに告げ、伝令を送りました。それは、「王と王に従う兵士が全滅することのないように。」するためでした(16節)。 2)遣いの女=彼女は祭司から告げられたことをその息子たちに伝える役割りを忠実に果しました。 3)バフリムのある男の家の妻=祭司の息子たちはアブサロム側の追手を察知し、バフリムのある男の家に入り、そこにあった井戸の中に身を隠しました。そこの妻はビックリしましたが、とっさの判断で、井戸の上に覆いを広げ、脱穀した麦を置きました。そして追いかけて来た者たちに「ここを過ぎて川の方に行きました。」と告げました。彼女は自分でも思いがけない言動で、主のご計画のために用いられたと言えます。 4)三名の協力者たち=ダビデは、マハナイムに着くと、ナハシュ、マキル、そしてギレアド人バルジライの三人から、寝具や食料等、これから必要な物資の提供を受けました。
 上記の4組の人々がネットワークの様に用いられ、ダビデ軍はヨルダン川の東に逃がれ、安心して休息を取り、作戦を練り、準備することが出来ました。

 3.主のために:いまの私たちも救い主イエス・キリストのために、「主の栄光を現わす」ために用いられることを願い出たいものです。2.の人々の中には、自分で意識してダビデ王のために考えて動いた者たちもいました。しかし3)の妻の様に思わぬところで用いられた人もいました。彼女は、直感によって「この人たちは守らなくてはいけない…」と感じたはずです。だからといって、自己中心に生きている人がこの様な働きに用いられることは、めったに無い筈です。やはり日頃から良心に従っている人、御心を尋ねている人を主は用いられます。
 私たちが願い出たいことは、主を畏れかしこむこと、日頃から「何が主のためになることなのか?」を聖書の御言葉から聞き取り祈っていることです。何より規則的に礼拝することです。地味ですが、その様な者を主は用い、祝福してくださいます。

 (参考聖書箇所:Tテモテ1章18〜19節)
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『キリストには替えられません』

2017/10/08 12:00
2017年10月8日主の日礼拝式メッセージ要約
聖書    フィリピの信徒への手紙第3章1〜11節  
メッセージ   『キリストには替えられません』   
メッセンジャー  田中文人牧師

 キリスト信仰は「喜び」です。そのことをパウロは、繰り返しこの手紙で書き送っています。その「喜び」とは、どの様な喜びでしょうか?また、パウロ自身どの様にして得たのでしょうか?
 1.ただのボジティヴ シンキングではなく:何でもかんでもうれしがる喜びではありません。警戒しなくてはならないことには敏感になり、しっかり見極め、惑わされない様にする必要があります。その点でただのポジティヴ シンキングとは違います。二千年前、警戒しなくてはならなかったことは、ユダヤ教時代の割礼を受けないと、本当のクリスチャンではないと言っていた人たちです。彼らは、なおユダヤ教の儀礼にしがみ付いたままでした。
 2.本もののキリスト信仰者(3節):1)神の霊によって礼拝する者=体に傷(割礼)があるかないかではありません。「イエス・キリストを救い主」と信じる信仰によって霊と真による礼拝を献げる人です。
 2)キリスト・イエスを誇りとする者=「私が私が…」ではなく、キリストを愛し、自分は低くし、キリストを高く崇める人です。
 3)肉に頼らない者=自分の血筋や家柄、学歴、経歴を拠り所にせず、聖書の御言葉に頼る人生を歩む人です。
 3.肉に頼っていたパウロ(5・6節):この様に書いているパウロもかつては、自分に頼り、家柄や学歴等を誇りにしていました。彼は、れっきとしたユダヤ人で、当時最高の学問も修めていました。信仰の面でもバリバリの律法主義者でした。そのうえキリストを信じる様になった人たちを迫害する先頭にも立っていました。
 4.180度変えられたパウロ(7・8節):ところが、復活されたイエス・キリストに出会ってもらったその時からパウロは生きる向きを180度変えられました。自分が迫害していたクリスチャンたちが信じ、命をかけていたキリストが、本当に復活され、生きて働いておられることを身をもって知らされたからです。
 それからのパウロは、この救い主と人格で深く交わる様になりました。すると、次第に、キリストのすばらしさを知る様になりました。そしてそれまで誇りにしていたことが、無益なものに思えて来ました。ついには、損失と見るようになり、塵あくたと見なすようにまで変えられたのです。
 5.「義」とされた喜び(9〜11節):「義」は、神様と正しい関係に迎え入えられるという意味です。神様の子どもにしていただくとも言えます。私たちも、ただキリストを「私の救い主」と信じるだけで同じ恵みに与ることが出来ます。そして、日々聖書の聖句に養われ、毎回心から礼拝し祈るならば、次第に「キリストには替えられません」というところに導かれます。そこを願い出ながら、今週の歩みに遣わされましょう。
 (参考聖書箇所:ヨハネ4章24節、フィリピ2章6〜8節、)
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『フシャイの意見も聞きたくなったアブサロム』

2017/10/01 21:29
2017年10月1日
主の日礼拝式メッセージ要約
聖書  サムエル記下第17章1〜14節  
メッセージ『フシャイの意見も聞きたくなったアブサロム』   
メッセンジャー 田中文人牧師

 「自分でもよくわからないけれども、そうしたいと思った」ということはないでしょうか?今日のアブサロムも同じ思いだったのではないでしょうか?
 1.アヒトフェルの提言(1〜5節):アヒトフェルは、彼が一万二千人の兵を選び、今夜のうちに追跡すれば、確実にダビデを捕えられると、アブサロムに申し出ました。これは、ダビデたちが疲れ果てているところを攻める策戦です。休息と立直す時間を与えませんし、アヒトフェル側にとっては、最少限の犠牲で勝利出来る戦略で、大変優れていました。アブサロムも周りにいた長老全員の目にも「正しい」と映りました。
 2.フシャイの提言:ところがなぜかアブサロムは、フシャイの意見も聞いてみたくなりました。彼は、ダビデからスパイの役を託され、アブサロム側に寝返ったふりをしていました。フシャイは、アヒトフェルの提言について、「今回は」優れていないと説明するところからはじめました。続けて彼は、アブサロム自身がイスラエル全国から兵を集めるように、そしてアブサロム自身が先頭に立ってそれらの兵を指揮して出兵するように、その様にして隠れ場のひとつにいるダビデを打つように、町にいるならば町ごと縄をかけて川に引いて行くようにと提案しました。勇敢なダビデは仲間の兵士たちと一緒にいるはずはなく、その様な中、いま出ていき、アブサロム側の兵が少しでもダメージを受けるならば、イスラエルの民の思いもアブサロムから離れるという理由からでした。
 3.摂理によるフシャイたちの決定:上記二人の提案を冷静に比べるならば、アヒトフェルの方が優れていることは、明らかでした。なぜならば、フシャイの案では、イスラエル全地域から兵を集めるために日数が必要になります。その間にダビデ側に休息と立直す時間を与えてしまうことになるからです。
 ですが、アブサロムは、フシャイの案の方を採用しました。また長老たちも同じ様に受け入れました。なぜこの様なことが起きたのでしょうか?
 フシャイはいまから三千年前のイスラエルでよくつかわれていた熊を譬えに、ダビデ側の状況を説明しました。それが彼らに受け入れられやすかったことは間違いありません。またアブサロムの自尊心にも訴え掛けました。ですが、それ以上に14節にある通り、「アヒトフェルの優れた提案が捨てられ、アブサロムに災いがくだることを主が定められたからである」。人の知恵では理解出来ない摂理が働いて、思わぬ方向に向かうことになったのです。
 4.高ぶらず御言葉によく聞くことから:現代でも主の摂理は働きます。私たちも「なぜか…をするように感じた。」という体験をすることもあります。また、予想に反する大逆転も起きます。そこに用いられることもあります。毎週の主の日の礼拝で心から生きて働いておられる父なる神様と救い主イエス・キリストを聖霊に導かれて畏れかしこみ喜びましょう。また毎日自分でも聖書につながり、天国の原則を聞き取り、そこに沿って歩めるよう祈りましょう。主は摂理に従って祝福し用いてくださいます。
 (参考聖書箇所:箴言19章21節)
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『福音のために』

2017/09/24 20:00
2017年9月24日主の日礼拝式メッセージ要約
聖書    フィリピの信徒への手紙第2章19〜30節   
メッセージ  『福音のために』   
メッセンジャー  田中文人牧師

 今日の聖書箇所には、ここまでパウロがフィリピの信徒たちに書き送って来た勧めを実践していたふたりのキリスト信仰者たちのことが記されています。(フィリピ2章、参照)
 1.テモテ(19〜24節):彼は、三代目のクリスチャンでした。また、パウロの伝道旅行に同行し、成熟したキリスト信仰者に成長していきました。
 彼は、1)パウロと同じ思いでフィリピ教会のことを真剣に心配し、祈っていました。2)「確かな人物」(22節)でした。これは、試験に合格するという意味で、伝道・牧会者に相応しい人物ということです。3)何より福音のために熱心に働き、御言葉に仕えていました。彼は、ちょうど子が父に従うように、御言葉に従っていたのです。
 その様なテモテをパウロは、フィリピに遣わそうとしていました。パウロのために祈り献げていたフィリピ教会に裁判の結果を伝えるためです。また、フィリピ教会の様子をテモテが見て、それをパウロに報告してもらい恵を分かち合いたいという思いもありました。
 2.エパフロディト(25〜30節):彼は、フィリピ教会のメンバーでした。このとき彼は、1)パウロを支援するためにフィリピ教会で集められた献金を届けるために、2)フィリピ教会を代表してしばらくパウロを助けるために、送り出されました。
 ところが、旅を急いだためかも知れません。ローマに着くと重い病気に罹りました。ところが、2千年前であったにもかかわらず、彼が病に罹ったことがフィリピ教会に伝わり、フィリピの群れは彼の回復のために祈りました。自分の病が伝わったことをエパフロディトは心苦しく思うとともに、フィリピ教会の祈りが聞かれたことを感謝しました。そして、癒されて元気になった姿を早くフィリピの兄姉に見てもらいたいと願っていました。テモテと同じ様に彼も命をかけて委ねられた働きに励んだ信仰者でした。
 3.パウロの信仰:上記二名だけでなく、パウロ自身もここまでフィリピ教会に勧めて来た信仰の歩み =自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払う(2章4節)歩みに献身していました。それが、テモテをフィリピに遣わし、エパフロディトを同じフィリピ教会に戻すことでした。これら二名がいなくなると、物心両面でパウロにとっては痛手だったはずです。それでもパウロは、自分のことは後まわしにして、喜んで彼らを送り出すことに決めていました。
 4.愛されるだけでなく:彼ら三名がこの様なところに喜んで遣えることが出来たのは、キリストの十字架の血による罪の赦しをいただき、キリストが事実復活されたことを信じて永遠の命の約束に生かされていたからです。そこを人生の土台に据え、今度はそのキリストの「福音のために」最善を尽していたと言えます。
 私たちも同じ救いの恵みにあずかったならば、神様を愛し隣人を愛する歩みを願い出ましょう。主は必ず輝く人生に用いてくださいます。
 (参考聖書箇所:マタイ22章37〜39節他)
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